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10月12日 礼拝説教 働くことの意味 マタイ20章1~16節

  • shimokitazawanazar
  • 10月12日
  • 読了時間: 11分

働くことの意味 マタイ20章1~16節


①はじめに

 皆さまおはようございます。10月第2週となりました。クリスマスにいたるまで神さまの守りを信じて歩みましょう。本日は有名なたとえ話を通して働くことの意味を考えてみたいと思います。このたとはぶどう園の労働者のたとえと呼ばれるものです。主イエスが天の国を示すために語られたものです。

 物語はこのように始まります。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者をやとうために夜明けとともにでかけていきます。そして一日につき一デナリオンで労働者をぶどう園に送ります。夜明けですから5時~6時頃でしょうか。よほど労働者が必要だったのでしょう。

 日本でも山谷や釜ヶ崎の労働者の皆さんが明け方に集まって、手配師と呼ばれる人々によって車に乗って労働の現場に行くという状況があります。当時のパレスティナも多くの労働者が仕事を見つけに集まってくるのですね。でも日本同様仕事にありつけるのは少ないことでした。ただ、今の日本は逆に労働者が不足していますので少々状況は異なります。

 

②状況の説明 

 夜明けの次に9時頃にも彼は出かけていきます。そこで何もしないで広場に立っているのをみたので賃金を払うからといい雇います。同じことが12時と3時にも起こり、そして最後には仕事も終わりそうな5時にも出かけて、仕事がない人をみると雇い入れたという物語です。ちなみに一デナリオンは一日分の賃金であり、一般的に口頭で契約を結んだと言われています。多くの人々が喜んで仕事をしたでしょう。

この主人の問題は、雇ってもまだ労働者の数が不足していたということです。そして雇い入れられた人たちは6節にありますように「何もしないで広場に立っている」のです。この人たちは仕事が嫌で広場に立っているのではありません。仕事がしたいのです。家族も養われなければいけません。働き場所を求めているのです。でも仕事にあぶれている状況です。そのような人をこの主人は雇って仕事に送ります。

 後一時間ほどしか働く時間がないときに、人を雇う。これは私たちの常識では考えられません。なぜ、この主人は敢えてそのようなことをしたのでしょうか。実は当時の労働時間は11時間にも及んでいたと言われています。朝7時~午後6時までとすると、最後の5時の人は一時間しか働かなかったことになります。


③最後の者から

 いよいよ労働時間が終わりました。賃金の支払いの時間です。皆待ちに待った時間ですね。この主人は約束通りに賃金を払います。申命記24章15節には、このように規定されています。「賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい。」(申命記第24章15節)とあります。ここに日没前とありますが、それはその日働いて賃金で皆が食べられるようにという配慮です。ところがここで少々思いがけないことが起こりました。

マタ 20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。』

 皆さんはどう思われるでしょうか。通常ならば、最初に来た人たちの労働をねぎらい、最後に5時に来た人たちに手渡すのが普通かなあと思います。順序が逆と思われた方もおられるかもしれません。でもこの主人は「最後に来た者」から始めて、「最初に来た者」に至るまで賃金を払うのです。ここまでくるとひょっとしたらこの主人は、そのことを全員に知らせたかったのではないかとも思うのです。この主人は神さまのことを指すのですが、ここからも以下に神さまの常識が人間の常識と異なることがわかります。それもこのたとえは「天の国」のことを意味するのですからいろいろと考えさせられますね。


④労働者の不満

 さらに、人々は賃金の額に驚きました。それは最初から働いた人も、最後の一時間だけ働いた人も同額だったのです。これは私たちの時給という常識から考えればとても異常ですね。一時間1,000円で働くことになれている私たちは単純に10時間で1万円と考えます。当然、最後の一時間しか働かない人は1,000円のはずです。しかし同額です。人々はそのことに不平を言いました。

マタ 20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは。』

 もっともな意見です。この不満で彼らは何を訴えているのでしょうか。一つは労働時間の長さが無視されているということですね。1時間と10時間が同額という尺度で測られていることへの不満です。

 もう一つは労働の内容が全く評価されていないという不満です。自分たちは一生懸命ここまで働いてきた。お昼にはお弁当を食べてここまで汗水たらして働いた。でも一時間しか働かなかった人と同額とは一体どういうことなのだということです。労働の量と質が違うのではないか。それが評価されていないのではないかということです。


⑤雇い主の言い分・労働者の言い分

マタ 20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。

 確かにこの主人の言い分は正当性があります。契約違反はしていないのです。一デナリオンという一日分の賃金の約束は守られているのです。主人が一時間し働かなかった人にも同額をあげるという理由が14節に書かれています。

マタ 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

 雇い主はそれが自分の善意からの思いであり、最後の者にも同額を支払ってやりたいのだよ。それを理解して欲しいというのです。そういう意味でいいますとこの主人はとても寛大な人だということになります。

 ただ全体の労働者のバランスから考えますと、この言い分は正当性を欠いているようにも思うのです。労働者の視点から言うと、契約違反ではないが、不平等な扱いがそこにあるのではないかという不満です。自分と他人の違いはやはり気になる者です。少しでも損をしたくないという思いは誰にでもあります。でもそこにはやはり自分と他者を比較している相対的な視点しかないようにも思います。

 

⑥示されている人間の本質と罪深さ

 一体何がここに示されているのでしょうか。それはまさに人間の本質であり罪深さというものではないかと思います。私たちの心に潜んでいる自分をとことん追求する思いです。相手の状況、相手の事情を全く考えずに自分がよければそれでよいという考え方です。そこに人間の陥る罪が考えられているのです。

マタ 20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

マタ 20:15 自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか。

 と逆に問い返しておられるのです。この問いは人間の罪に対する問いです。


⑦支払いは主人の自由に任されている

 この主人は一見十分な理由があるかのように人間の不平不満に少しも動じません。どこにそのような確信があるのでしょうか。それは支払いの仕方は主人の自由であるということにあります。ただこの自由は自分勝手なさらなる金儲けのための自由ではありませんでした。ここで重要なのは主人の動機です。

 主人は憐れみの故に、すべての労働者の事情を斟酌して払ってあげたいという善意からこのような決断をしているのです。神さまは憐れみ深いという理由がここにあります。人間である私たちはそれに対してあくまで自分が一番であることを追求する者です。

 ましてはこれは天の国のたとえです。天の国へ入る人を神は拒まれません。むしろ、これまで様々な事情を斟酌して、遅れてきたとしても、何かの事情があると理解し、早く入りたくても、最後に天国の門に立たなければいけなかった事情をちゃんと見つめておられて、私たちを天の国へと入れてくださるお方なのです。

 

 ⑧業績主義ではない 

 実は、ユダヤ教のラビの文献には、これと同じようなたとえがあり、この最後に一時間しかは足らなかった人は、実はとても有能な人で長時間働いた人と同じくらいの貢献をしたからだということが書かれているそうです。でもそれだと、午後3時に来た人もそうだったということになりかねません。そこには律法を守るための業績主義が反映しているように思うのです。天国に入るかどうかはその人が何をやってきたかでは測ることが出来ないということです。

 主人の動機がやはり重要なのです。主人はこの一時間しか働かなかった人、3時間しか働かなかった人などの気持ちに寄りそって愛の中に決断したのではないでしょうか。まさにそれはイエスを神だと思わず、無視し続けてきて、罪人であるのに、憐れみをもって見つめてくださる主がおられるということです。人の目に見える平等と神さまの御心は違うのです。人の利益と自分の利益を比べて、自分の利益が少しでも少ないと納得せずに、神や他者を恨むことは御心ではないのです。

 

⑨葬儀の中で

 私はこれまでたくさんの葬儀の司式をしてきましたが、死ぬ間際にイエスさまを信じて天国へお帰りになった方が何人かおられました。そのご遺族が、教会での葬儀の後、お開きの会の中で「うちのお父ちゃんは生前悪いことばかりしてきたのに、最後の最後で教会の先生に来ていただいてこんなに素晴らしい葬儀をしていただいた。ラッキーとしかいいようがない。私もそうしたい」とおっしゃっていました。

 そういう誤解をしてもらっては困るのです。聖書の中には、若き日に創造主を覚えよと書かれてあり、幼子のごとく私を受け入れなさいと語られていますように、神さまを信じる信仰は早ければ早いほどいいのです。最後の最後も救われはしますが、信じる時間がながければ長いほど恵みの中を生きられるのですから、それに勝るものはないのです。そのことを誤解しないようにしていただければと思います。


⑩最後の者にも注がれる神の愛

 何人かの皆さんに病床洗礼を施してきました。でもそれはとても素晴らしい瞬間でした。この一時間しか働けなかった方は、本当はもっと働きたかったはずです。でもこの最後の者も生きていかなければいけません。神様のために尽くせなかった最後の者にも神の愛は注がれるのです。牧師夫人の母もがんになり最後に病床洗礼を施して天国に変えられました。小林十さんのお母様もそうです。神の愛は時間に関係なくその人の注がれます。主なる神様は「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と宣言なさるのです。

 最近神学校の校長をしていると思うことがあるのです。若い時から献身して主に仕える人もおられれば、退職して最後になって献身される方もおられます。

最近神学校交換会に行きますと、皆年配ばかりで、誰が先生で誰が生徒がわからなくて苦労するのですが、年取って献身した者にも、早く献身した者にも平等に働かれる神さまの愛があるのです。大切なのはその召しを受けたらそれに応えていく信仰なのです。


⑪私たちはどの人物あてはまるか

 皆さんは、自分自身をこの譬え話のどの人物と当てはめるでしょうか。自分はどこにいるかということです。私たちは皆この広場にいる者です。神さまのぶどう園に雇われている者です。そこへ神さまがやってきて、私たちを天の国へ招いてくださるのですが、現実には、賃金うんぬんの問題ではないのす。

 つまり、この一デナリオンが神さまの救いです。私たちを救ってくださる神からのプレゼントです。その一デナリオンを神さまは約束してくださっているからこそ、私たちは安心して主イエスに従い、神さまを信じて生きることができるのです。この一デナリオンとうい正当な報酬こそが、人類すべてに対する神の平等な愛を示しているのです。


⑫神の思い

 最後にイエスさまは「マタ 20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と語られました。これは神さまの恵みを表す言葉です。それは神さまは人間の順番を気にしておられないとういことです。私たちがこの世でどらくらいのことを為したか、つまり何時間働いたかは関係なく、神さまのなさる業はそのような順番をこえて私たちに届くのです。そこでは誰が偉いか、誰が神に近いかなんて関係ありません。自分が正当に扱われないと私たちには不満がでてきます。でも神さまは己を無にして私たちの為にくだってきてくださいました。それは私たちを救う為であったのです。

フィリ 2:6 キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず

フィリ 2:7 かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ

フィリ 2:8 へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。


⑬たとえ不当に扱われようとも 

 時に私たちは自分の立場が正当に評価されずに、自分の身が危うくなることもあることでしょう。そこで焦らずに、このぶどう園の主人である神さまの思いを感じ取りましょう。そしてその時には次の詩編を祈りましょう。

詩 90:12 残りの日々を数えるすべを教え/知恵ある心を私たちに与えてください。

詩 90:13 主よ、帰って来てください。いつまでなのですか。/あなたの僕らを憐れんでください。

詩 90:14 朝には、あなたの慈しみに満たされ/すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。

詩 90:15 あなたが私たちを苦しめた日々と/私たちが災いを見た歳月に応じて/私たちを喜ばせてください。

詩 90:16 あなたの業があなたの僕らに/輝きがその子らに現れますように。

詩 90:17 我らの神、わが主の麗しさが/私たちの上にありますように。/私たちの手の働きを/私たちの上に確かなものにしてください。/私たちの手の働きを力あるものにしてください。

 
 
 

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