救いの約束 モーセ 出エジプト6章2~13節
- shimokitazawanazar
- 2025年11月20日
- 読了時間: 9分
11月16日説教 救いの約束 モーセ 出エジプト6章2~13節
はじめに
皆さまおはようございます。11月第3週となりました。本日はモーセに神さまがしてくださった救いの約束についてお話しさせていただきます。
ご存知のようにモーセはエジプトに捕らえられているイスラエルの民の解放の為に用いられた人物です。そしてこの前の章でモーセがエジプトの王ファラオにエジプトからユダヤの民を解放するように要求したことが書かれています。それでもファラオは、そう易々と解放するわけにはいきません。何せ、彼らは貴重は労働力ですから。ファラオはその要求に気分を害したのか、さらなる要求をつきつけることになります。その為に、ユダヤの民の苦しみは増しました。
2節~8節
出 6:2 また、神はモーセに告げた。「私は主である。
出 6:8 私は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地にあなたがたを導き入れ、それをあなたがたに所有させる。私は主である。』」
2節から8節には、神さまがエジプトの民の叫び声をきいて、アブラハム、イサク、ヤコブにした契約を思い出してくださり、そして家すら得るの民を奴隷の身分から救い出してくださったことが書かれています。実はこの2節~8節は3章7~10節とほぼ同じです。それを神さまはここでも繰り返されたのですね。
神さまの名前
さて、この2節と8節の中で注目すべき言葉は「私は主である」という言葉です。אֲנִ֥י יְהוָֽה という言葉となります。アニー(私)・ヤハウェと呼びます。これは神さまの固有の名前です。昔はヤハウェはエホバと呼ばれていました。この言葉は発音記号によって変わるのです。十戒の中に「主の名をみだりに唱えてはならない」とありますね。この戒めのしばりによって多くの人が神の名をうかつに口に出せなくなっていたのです。それで日本語に訳す時に、エホヴァと書かれている言葉を主に、そしてエロヒームという単語は神と訳すようにしました。それで主が神さまの名前となったのです。
もう一つの神さまの名前
3節をご覧ください。
出 6:3 私は、アブラハム、イサク、そしてヤコブに全能の神として現れたが、主という私の名は彼らに知らせなかった。
ここには興味深いことが書かれていますね。モーセの前の時代の人々、アブラハム、イサク、ヤコブに対しては全能の神として現れた。בְּאֵ֣ל שַׁדָּ֑י ヘブライ語ではエルシャダイというなめです。でも始めて今あなたには主という名前で現れると言われるのです。改めて1節をみますとこうあります。「さて、主はモーセに言われた。」この主とうい言葉がそれです。しかし、実は主という言葉は、出エジプト記3章でもまた創世記でもたくさんでてきます。なぜここで主は初めてと言われるのでしょうか。
実は、主という名前が最初にでてくるのは創世記の2章4節以降です。一般的に言われるのは著者が違うと言われるのです。創世記1章1節から2章3節までは別の編集者(エロヒストと呼ばれます)が書き、2章4節以降はヤハウェストという編集者が書いたのです。
つまり出エジプト3章の物語と6章の物語は別の著者によるので二度繰り返されていると考えてください。
全能の神の契約
全能の神が主となったのですが、それでは創世記において全能の神が現れたのは創世記17章なのです。
創 17:1 アブラムが九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。私の前に歩み、全き者でありなさい。
創 17:2 そうすれば、私はあなたと契約を結び、あなたを大いに増やす。」
アブラハムは75歳の時に新たな土地に行けと言われたのですね。私の両親も妹の大阪のところで現在生活していますが、熊本を離れるとは思っていなかったことでしょう。80代後半で住み慣れた熊本を離れて大阪で暮らしています。アブラハムに17章のこの言葉がくだったのが、99歳の時でした。出発してすでに24年たった時の言葉なのです。24年もの間、アブラハムは神さまのことを信じ続けて歩んできたはずです。その彼に主は「私の前に歩み」とおっしゃっています。つまり、自分は全能の神として背後にいて支えるよという意味ですよね。あなたには出来ないかもしれないが、あなたを導いているのは全能の神である私なのであり、あなたと結ぶ契約はとこしえの契約。けっして反故にしないという力強い宣言なのでした。
契約に忠実な神
その神が、今モーセに現れ、「主」という新しいお名前を示して下さいました。このお名前を示すことによって主なる神様がモーセに見つめさせようとしておられるのも、この契約です。本日の箇所、出エジプト記6章の4、5節にこのように語られています。
出 6:4 私はまた、彼らと契約を立て、カナンの地、彼らがそこにとどまっていた寄留地を与えることにした。
出 6:5 私はまた、エジプト人が奴隷として働かせているイスラエルの人々の呻き声を聞き、私の契約を思い起こした。
出 6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。『私は主である。あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出し、過酷な労働から救い出す。またあなたがたを、伸ばした腕と大いなる裁きによって贖う。
ここにはまさに主の決意。それも行動を起こすよという決意が表れているように思います。アブラハムに現れた神が、同じようにイスラエルの民に現れて、今こそ私の業を行うと言ってくださるのです。
その結果何がわかるのか
出 6:7 私はあなたがたを私の民とし、私はあなたがたの神となる。あなたがたは、私が主、あなたがたの神であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から導き出す者であることを知るようになる。
神さまとイスラエルの民との関係は、絶え間ない、主の約束の確認によって度々主によって更新されてきました。ここには、「私は」「私が」という言葉が何度もでてきます。これは個人的に主がイスラエルの人々にもう一度現れてくださる個人的な決意の表明です。結果的に民は、この主なる神こそ、自分たちを苦難から助け出してくださる主であることを知るのです。
出 6:8 私は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地にあなたがたを導き入れ、それをあなたがたに所有させる。私は主である。』」
同じ主は、もう一度、行動を起こしてくださり、最後に、約束通り、誓った地にあなたがたを導きいれて所有させてくださると語り、最後に私は主であると宣言してくださるのです。まさに力強い神さまの決意の言葉がそこに示されます。
うまくいかなかったモーセ
このモーセの生涯をみると、ファラオとの交渉役に彼はなるのですね。モーセは現代でいうと中間管理職のような存在ではないかと思います。交渉で彼はファラオを説得するのですが、なかなかうまくいきません。ファラオは、「おまえたちが怠け者だから、そんなことを言い出すのだ」と語り聞く耳を持ちません。煉瓦の数はそのままで煉瓦つくりの藁から作成する厳しい条件に追い込まれます。それを聞いたイスラエルの人々はモーセを責めました。「おまえのおかげで以前よりもさらに苦しい状態に追い込まれることになった。どうしてくれる」というのです。どっちからも責められて、間で苦しむモーセです。落ち込んだことでしょう。それを彼は神さまに文句という形で表します。
出 5:22 モーセは主のもとに帰って言った。「わが主よ、なぜあなたはこの民を苦しめられるのですか。なぜ私をこうして遣わされたのですか。
出 5:23 私がファラオのもとに行ってあなたの名によって語って以来、ファラオはこの民を苦しめています。それなのに、あなたはご自分の民を救い出そうとされません。」
自分を指名してくださった神なのにちっとも行動を起こしてくれない。自分の現状は問題ばかりだというのです。現状を見ると、ファラオの迫害は続くし、何も好転していないのではないですか。そして最も疑問の言葉は22節の最後、「なぜ私を遣わされたのですか」という言葉です。モーセは、自分の存在理由を失いつつあったということです。自信喪失、意気消沈している姿を見ることができます。「地に這いつくばるように自分を鞭打って従ってきたけれど、もう主よ駄目です」という表現だったように思います。その時に、「私はあなたの主である」という力強い宣言を聞くのです。
モーセの説得の失敗
出 6:9 モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは落胆と過酷な労働のために、モーセの言うことを聞こうとしなかった。
モーセは神が新たに現れてくださった事実をイスラエルの民に告げるのです。でも彼らはそのメッセージを聞こうとしませんでした。下北沢の皆さんは私のつたないメッセージをちゃんと聞こうとしてくださいます。でも、神さmさがせっかく行動してくださる決意のほとばしりがあるのに対して、それを勢いよく告げても民は聞きませんでした。その原因としてここには「落胆と過酷な労働のため」と理由まで書かれているのですね。
マーチン・ルーサー・キング牧師の闘い
黒人解放運動で有名なキング牧師が黒人解放運動を始めようとしたのは、黒人を取り囲む現状がとても厳しいものだったからですが、その厳しい過酷な状況を見つめていた黒人たちは、無気力な目をして、自分たちが何をなしても状況は変わらないとあきらめていたのです。ある日、ローザ・パークスという女性が、バスの中で、白人が乗ってきたら席を立って後ろに行かなければならないというルールを破り、席を立たなかったから逮捕されたのですね。これもこのパークスさんの行動から解放運動が起こるのですからすごいことです。それと同じように、イスラエルの民は、その過酷な状況を自分で変えようとはせずに無気力になっていたのです。苦しい状況は人々の気力も奪っていくのです。
負の伝播
出 6:12 モーセは主の前で言った。「御覧ください。イスラエルの人々でさえ、私の言うことを聞きません。どうしてファラオが話し下手の私の言うことを聞くでしょうか。」
まさに自信喪失ですよね。自分の役割も忘れている状態です。あれほど、神さまが現れて、あなたはイスラエルの民をエジプトから解放するというのに。彼が口下手なのは召命の時にもわかっていたことです。こういう時に自分のマイナス点しか気づけなくなるのです。その時、神さまは彼にアロンという兄弟がモーセの代わりに語るようにしてくださったのです。とても厳しい現実です。民もモーセも同じ状況です。負の連鎖です。これを覆す何かが必要なのです。
わたしは主である
しかしその人間の現実の中に、「わたしは主である」という神様のみ言葉が響いています。神様が、新たに、具体的に、ご自分のお名前を明らかにし、示して下さったのです。そして皆さんもご存知のように、この言葉こそが、イエス・キリストという言葉につながります。イエスは主なり、イエスこそわが救い主だと告白することができるのです。
信仰によるモーセの生涯
ヘブ 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。彼らがその子の美しいのを見、また王の命令を恐れなかったからです。
ヘブ 11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んで、
ヘブ 11:25 罪のはかない楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐げられるほうを選び、
ヘブ 11:26 キリストのゆえに受ける辱めをエジプトの宝にまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。
ヘブ 11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去りました。目に見えない方を見ているようにして、揺らぐことがなかったからです。
ヘブ 11:28 信仰によって、モーセは、滅ぼす者が初子たちに触れることのないように、過越を行い、血を塗りました。
ヘブ 11:29 信仰によって、人々は乾いた陸地を通るように紅海を渡りました。同じことを試みたエジプト人たちは、海に飲み込まれてしまいました。
だからこそ私たちも本日イエスは主である。私は主であると言われる方を信じつつ今週も歩みましょう。






コメント