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10月26日 礼拝説教 命を創造する神 創世記4章1~10節

  • shimokitazawanazar
  • 10月26日
  • 読了時間: 12分

命を創造される神 創世記4章1~10節  


① はじめに

 皆さまおはようございます。10月最後の日曜日となりました。本日より降誕前第9主日となりました。降誕が近づいています。クリスマスに備えて歩んでいきたいと思います。昨日は和田誠さん、坂本怜菜さんの結婚式が行われ無事終了しました。皆さまのお祈りを感謝いたします。

 

 本日は創世記のカインとアベルの物語から神に生かされる私たちの歩みを考えていきたいと思います。3章には、アダムとエバがエデンの園から追放されるという物語の後に書かれているものです。彼はどこに追放されたかというエデンの東へ追放されたのです。

 創 3:24 神は人を追放し、命の木に至る道を守るため、エデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれた。

また4章16節には次のように書かれています。

創 4:16 カインは主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ。

 地図では、この場所になります。ノドはさすらいという意味ですからノドの地に住むとはさすらう人となったという意味です。

 エデンの東と言えば、ジェームズ・ディーンの映画が有名ですね。

  

② 物語の始まり 罪の自覚

 実は、創世記の3章をみますと失楽園の物語が展開されるのです。その前提として3章の記事は、とても心が痛い物語が続きます。あれだけ禁じられていた園の中央にある木の実を食べてしまったアダムとイブは、すぐに自分たちが裸であることに気づき、急いでいちじくの葉を編んだものを身にまといます。羞恥心を感じることで、正常な関係であったのに破綻がここに見られます。人間と人間同士の関係は神との関係がとぎれた瞬間に始まるのです。


創 3:8 その日、風の吹く頃、彼らは、神である主が園の中を歩き回る音を聞いた。そこで人とその妻は、神である主の顔を避け、園の木の間に身を隠した。

創 3:9 神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」

創 3:10 彼は答えた。「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」

このどこにいるのかという神さまの人を探す声を彼らは脅威と感じます。この物語は神さまとの関係が破綻する時にすべての関係がおかしくなことを示しています。そして神さまからのかくれんぼが始まるのです。神を顔と顔を合わせてみることができずに、神から逃れてしまう。人間は生きる土台、中心をこうして失ってしまったのです。その破綻が兄弟同士の殺人というものとしてあらわれてくるのが本日の4章なのです。


③カインとアベル

創 4:1 さて、人は妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって男の子を得た」と言った。

創 4:2 彼女はさらに弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 アダムとエバには二人の子どもが生まれます。長男カインと次男アベルです。二人はそれぞれ違った職業についていました。羊飼いと農夫です。二人はそれぞれ別の職業を持ちながら歩んでいました。そして二人は神さまの自分の労働の結果を奉献する為にやってきます。

創 4:3 日がたって、カインは土地の実りを供え物として主のもとに持って来た。

創 4:4 アベルもまた、羊の初子、その中でも肥えた羊を持って来た。主はアベルとその供え物に目を留められたが、

創 4:5 カインとその供え物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

 主は弟アベルの捧げ物である超えた羊には目を留めますが、カインの捧げ物には目をとめられませんでした。なぜかということに関しては後で考察したいと思います。


④カインの反応

 さて、5節の続きを読みますと「カインは激しく怒って顔を伏せた」とあります。そしてその怒りさ殺人を引き起こすことになるのです。

創 4:8 カインが弟アベルに声をかけ、二人が野にいたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。ここに怒りの怖さを見ることができます。怒りは理性を麻痺させ、感情にまかせて相手の命まで奪ってしまうことが起こるのです。短気にはどれだけ注意しても不足するくらいです。でもなぜカインはアベルを殺したのでしょうか。

 カインとアベルは皆さまもご存じのように二つの文化を代表する者たちでした。カインの農耕文化とアベルの牧畜文化です。当時の世界はこの二つが代表的なものでした。しかしイスラエルは元来は牧畜文化に属します。アブラハムも牧畜を飼う者として神さまに導かれて歩んでいきます。ダビデも羊を飼う者でした。羊を飼いつつ、冒険をしていくのです。冒険の文化、チャレンジャーとしての生き方がそこにあります。ところが、後にカナンに神さまに導かれてからは農耕文化が中心となります。日本人である私たちにはこの農耕文化の方がしっくりときますね。特にお米好きな私は、どちらかと言えばカインを応援したいという気になります。カインの怒りはおそるべき殺人をうみだすほどになってしまいました。神さまは農耕文化よりも牧畜文化の方を好んだということなのでしょうか。

  

⑤決定的な理由ではない

 確かにイスラエルにおいては、牧畜文化が一般的ではありました。しかしそれは要因の決定的な理由ではありません。なぜならば、ユダヤの神への捧げ物規定には、家畜と共に農耕の捧げ物規定が明記されているからです。ですから神さまは農耕の捧げ物は喜ばれないということでは決してありません。何よりも神さまはそのような形でえこいひきされる方ではないはずです。ですからこの物語を読む時に農耕VS牧畜というような比較で読んではなりません。


⑥解釈の難しさ 

 それではこの物語は一体何を語ろうとしているのでしょうか。この箇所は説教者泣かせというかなかなか解釈の難しいところです。例えば、アベルが信仰的に優れていたとか、カインが正しい人ではなかったから神さまによって受け入れられなかったのだという解釈をした人もおられます。映画天地創造では、カインが神さまに捧げようとして、惜しくなってその一部を自分の懐に戻したからというような形で描かれてていました。でもそれは想像の世界に過ぎません。でもここで一つだけ言えることは聖書はその理由を全く書いていないのです。その理由な謎なのです。ですから理由を詮索する読み方よりもこの物語全体を通して何を語ろうとしているかの方が重要です。


⑦他の人ばかり褒められる

 皆さんはこのような体験はないでしょうか。自分の作品ではなく他の人の作品ばかり褒められる。小さい頃習字を習っていた時に似たような体験をしたことがあります。私の友人の作品は先生によって褒められるのですが、私の作品はなかなか褒められません。またその友達は習字がとても上手なのです。すごく相手がうらやましく思いました。いつも比較されるから時間ずらしていこうかなあとか、一緒に行きたくないなあとか。いろんな事を考えました。

 神がカインの捧げ物を受け入れなかった原因は不明ですが、重要なのはその後の彼の態度です。カインの「激しく怒って神を伏せた」という表現の背後には様々な感情のまとめがあるのではないかと思います。

 

⑧「カインは激しく怒って顔を伏せた」

 おそらく彼には理由がわからないからすねたのです。自分にはどのような落ち度があるのだろうか。心当たりがない。自分に思い当たる節があったら納得できたでしょう。でもそれが彼にはないのです。なぜ自分は神に受け入れられないのだ。それが焦りとなり怒りとなって彼を襲い、ついに顔を伏せて神との関係を拒否したのです。今自分はとても難しい立場にある。そのことだけは確かでした。まさにここにあるのは人生の謎です。よく災害の現場を中継しているテレビで、被災した人が「なんで自分なのかわからない。なぜここで災害が起こるかわからない」という言い方をされますね。人間として生きているとまさに答えがない謎があるのです。自分だけが不幸という時にそれが相手に対する嫉妬となって燃え上がり、憎しみを生むことがあるのです。そしてその最後に殺意が生まれてくるということもあるのです。カインは激しく怒りました。その結果として顔を伏せました。神と面と向かって、語れない、見れないのです。でもこれは、神を拒否したということです。ですので、神に対する不信仰以外の何ものでもありません。


⑨顔を上げられるはずではないか。

 そんな彼に対して語られた言葉が6,7節です。

創 4:6 主はカインに向かって言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

創 4:7 もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。」

 この言葉は何を私たちに告げているのでしょうか。それは神の側から見れば、カインを懲らしめようとする意図はないということです。なぜならば何とかカインを立ち上がらせようとされているからです。カインを憎らしいとか感じてはおられないということです。

 結果としてカインの努力は報われませんでした。そこに関しては、少し同情もできます。でも考えてみたら、努力が報われるということの方がまれであって、報われない努力というのを私たちはかなりしているのではないでしょうか。

 カインは弟と同じように自分の穀物を神さまに捧げました。残念ながら受け入れられませんでしたが、彼の行為自体には落ち度がないのです。だからこそ、何もやましいことがないのだから顔を上げなさいと勧めておられます。


⑩罪の原点 

 ただしカインに一つだけ過失があるとしたら、それは神さまの判断を受け入れられないで顔を伏せて神の方を直視できない状態になったということです。何もやましいことがないのだから堂々と目を合わせようよとおっしゃってくださる神さまを直視できないのです。ここに罪の原点があるのです。

 アダムとエバはあのエデンの園で蛇によって誘惑を受けますね。その時蛇は彼らに何と言ったか覚えておられますか。

創 3:1 神である主が造られたあらゆる野の獣の中で、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」 ここで重要なのはこの本当にという言葉です。

 蛇の誘惑は人間の弱点をつくものでした。「本当に」って言われたら私たちはどぎまきするのではないでしょうか。「あなた本当にそうなの?」て言われたら自信をもってそうだと答えられないのが人間です。本当に鍵を閉めたのかと言われると「どうだったっけ?」と自問してしまう私たちがいるのです。蛇の誘惑はたくみでした。人間は完全でないので、本当にと言われたら誰も確信をもって言い切ることができないことを知っているのです。

 神さまと向き合おう。それができないから的外れなのです。


⑪神さまと向き合おうよ

 ですからこの言葉は私たちへの招きでもあります。「あなたの怒るべき相手はアベルではなく、私なのだよ。なぜ私と向き合おうとしないのか」と神さまはカインに語っておられるのです。罪は最初のところで収めなければとんでもないことになってしまうからです。

 昨日は誠君と怜菜さんの結婚式でした。結婚式の時、誓いの最後にお互いに顔を向かいますね。そしてキスします。顔を向き合うのは英語ではface to faceです。夫と妻は差し向かいで生きる者です。その関係の中で原点に立ち帰ることが重要です。

 7節の最後「正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求めるが、あなたはそれを治めなければならない。」と言われている通りです。罪を自覚した時に、私たちはもう一度神さまに目を向けなければならないのです。ところがこの一番肝心の時に、カインは神さまに顔をあげることが出来ませんでした。つまり罪の負けたのです。自分の中で気持ちが堂々巡りして、自分を責める思いが、相手への怒りとなり、殺人にいたってしまったのです。堂々巡りしている時に自分の中を見つめて解決にはならないのです。


⑫罪が戸口で待ち伏せてあなたを求める

 罪とは神から視線をそらすことです。的はずれな生き方をすることです。怒るべき相手、対話をする相手を間違えて神と向き合わないことです。神への不信仰から罪は始まります。私たちを造ってくださった神さまの思いを無視する生き方をしている私たちはすでに罪に取り込まれているのです。罪はそういう意味でいつでも神からの視線をはずそうと待ち伏せしているのです。

「それを治めなければならない」とあります。治める為にはもう一度顔をあげて神と向き合うことが大切なのです。


⑬呼びかける神

創 4:9 主はカインに言われた。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」彼は言った。「知りません。私は弟の番人でしょうか。」

創 4:10 主は言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。

 ここにはしらばっくれるカインの様子が書かれています。「あなたの弟アベルはどこにいるのか」という表現に似たものが3章にもでてきます。

創 3:9 神である主は人に声をかけて言われた。「どこにいるのか。」

 「どこにいるのか」と神さまは私たちを探してくださり、元の関係に戻ろうと呼びかけてくださるのです。それなのに、人は「私が弟の番人でしょうか」とか、3章10節では「私はあなたの足音を園で耳にしました。私は裸なので、怖くなり、身を隠したのです。」と神の声を退ける言い訳をしました。

 

⑭カインの姿は私たちの姿でもある 

 私は罪に陥った人の生き方には共通点があると思います。それはいつも自分に起こっていることを他人のせいにするということです。それは実は誰にでもあることですよね。でもそこには解決はありません。自分が努力して神さまの為に尽くしても、それが評価されないことも起こります。でももし私たちの歩みが正しく、心に曇りがないのならば、その奉仕も神さまの委ねましょう。神さまがその計画の中で用いてくださいます。

 何よりも重要なのは神さまの方向を向いて歩むということです。

 

⑮神さまの守り

創 4:15 主は彼に言われた。「いや、カインを殺す者は誰であれ、七倍の復讐を受けるであろう。」主は、カインを見つける者が誰であれ、彼を打ち殺すことのないように、カインにしるしを付けられた。

 神さまは、そのような失敗を犯すカインを豊かに守られます。そして誰もその復讐をしないようにしるしをつけられます。ここにこそ神の思いがあります。私たちが人生の不可解さに立ち尽くす時にも、そしてたとえそれによって失敗を犯したとしても、あきらめることなく主は私たちを守ってくださるのです。

 神様から顔を背けて殺人の罪を犯したカインが、しかし神様に捨てられ、滅ぼされるのではなく、なお神様の守りの中に置かれている、それが私たちの姿なのだ、とこの物語は語っているのです。

私たちは、人生の謎、世界に起る説明のつかない悲しみの出来事の謎を前にして立ちすくむ者ですけれども、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死における神様の憐れみと慈しみを見つめることにおいて、神様のみ顔を見上げつつ、その守りの中でこの世を歩み続けていくのです。

 
 
 

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