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11月2日 悪い思いがでてきた時には マルコ7章14~23節

  • shimokitazawanazar
  • 11月2日
  • 読了時間: 12分

①はじめに 罪に関して

 皆さまおはようございます。11月第一主日の礼拝をささげます。

 キリスト教会に行くとよく耳にする言葉があります。そのひとつは、「愛」という言葉です。 もうひとつは、「罪」という言葉です。もしかすると、皆さんの知り合いの中には罪人呼ばわりされて、頭にこれらた方をみたという経験もあったかもしれません。 たしかに罪という言葉は、心地よい響きをもっていません。ある説によりますと、「罪」 という言葉は、「つつみ」という語がつまった言葉だそうです。 罪は、自分の不始末を包み込んで、自分に都合のいいように処理しようとするものです。アダムとエバは、神との約束を破ったために、神から遠ざかり、神から隠れることによって、 自らのおかした罪を隠蔽しようとしたのです。人は、自分の都合によって、多くの神々を作り、真の神に対しては自分の罪を包み隠し、勝手な生き方をしているのではないでしょうか。

 反面、人が真理を求め、自分や他人に誠実に生きようとしたり、真の神を求め、神に誠実であろうとすると、必ずといっていいように、自分がどんなに罪深く汚れている存在であるかということを感じさせられ、少なからず衝撃を覚えることがあります。ある聖人は、「私がひとつの善を追い求めて励んだあかつきに、振り返ると、 善を生み出す ために十の悪を生み出してしまっている」と言って、自分の罪深さに苦しんだそうです。

 また、キリストの使徒であるパウロも、自分の罪の性質を嘆いて、「私は、ほんとうにみじめな人間です」と言っています。(ローマ7・224) 人は、罪人であり、罪を犯す者であり、罪の解決を見いだせないで苦しむもの。 それが、 人の現実の姿ではないでしょうか。

 マホメットは、「世の中で一番みにくいものは、信仰を捨てた信者であり、世の中で一番美しいものは、罪を悔い改めた罪人である」と言ったそうです。


②人を汚すもの

私たちの中にある罪、人を汚すものがあるのですね。ここには人を汚すものが何かが書かれています。というのもこれは全人類にとって、ここではユダヤ人にとっても大問題だったからです。彼らは律法の民ですから、罪の規定はすべて律法にありました。その中には清いものと汚れたものとの区別があります。また、汚れてしまった場合にどのように身を清めて神と出会えばいいのかという細かな規定も書かれています。

 さて、本日の箇所は7章1節からの続きですが、そこでは、エルサレムから来たファリサイ派がイエスさまの弟子の中で手を洗わないで食事をしたというので批判されたことが書かれていました。ファリサイ派や律法学者たちは、食事の前に手を洗う時に、ひじから先などをどのように洗うのかという細かな規定がありました。5節をみましょう。


マル 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」


 彼らはイエスさまに弟子たちが律法の規定に従って手を洗うように指導すべきではないかと批判しているのです。イエスの応答は8節です。


マル 7:8 「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 この言葉でイエスさまは戒めを守ることは何の為にあるのかということを語っておられます。神の戒めを守ってきたのに、それが形骸化して何のために守っているのかが曖昧になる。当時はよくても、今どうなのだろうか。神の戒めが時代をへて人間の言い伝えになっているのではないかという警告をだされたのです。

人は年をとるにつれて保守的になっていきます。それは人だけでなく教会もそうです。伝統的な教会はなかなか変化が起こりにくいです。自分たちの習慣、やり方が優先する事例は身近にかなりあります。それを変えられたら困ると抵抗しますね。下北沢も90年をこえた歴史がありますから、その伝統があります。でも今日において宣教する為に変えていくべきものは変えていく勇気が必要とされる時があるのですね。でも、これまでこのようにやってきたのに急に変化が起こると自分が否定されたようになるのです。そのあたりが難しいところです。


③「清い者」と「汚れた者」の区別、人を汚すもの

  ユダヤの律法の中で問題なのは、「清いもの」の「汚れたもの」の規定と区別が存在していたということです。それは人だけではなく、物にも適用されていました。清い動物と汚れた動物という区別がありました。そしてもちろん、自分たちは「清い者」であるとして清くない人々を裁いていたのです。

 さて主イエスはこのことに対して何と言われたのでしょうか。

マル 7:15 外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」とおっしゃいました。おそらく弟子たちやユダヤ人たちは何を言っておられるのかわからなかったのではないでしょうか。弟子たちはそれをイエスさまに尋ねました。それに答えてイエスさまが語られたのが18節~19節です。

マル 7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。

マル 7:19 それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、

 「ものわかりが悪い」と言われています。かなりきつい言葉が書かれています。ここでイエスさまが言われていることは、それは、外から腹の中に入るものは、出ていくときはみんな同じだ、ということでしょう。つまり食べ物のせいで人が汚れることはないのだよと言われているのです。人を本当に汚すものは外から入ってくるものでないのだというのがイエスさまの指摘です。むしろ内側からのものが人を汚すのです。


④内側から汚すリスト

マル 7:21 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、

マル 7:22 姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、

 ここで全部を定義するのには時間はありませんが、私はこのリストにあるものは皆つながっているのではないかと考えています。たとえば語源的には22節の妬みという言葉は21節の「悪い思いが出てきて人を見る」という定義があるくらいです。これはどの国民も同じですが、自分と人とを上下関係でみてしまうことがあります。ランク付けと人を見てしまうとその人の善さが消えていきます。自分がいつも上でありたいという本能がありますから、そこから人を見下すことがでてきます。そういう意味では高慢とつながっていますね。

 最も注目すべきは最後の「愚かさ」という言葉です。これは新共同訳ですと「無分別」となっていました。無分別から愚かさはでているのですが、これは理性的な判断ができない状態ですよね。何がよくて、何が悪かという道徳観、倫理観が麻痺している場合があるのです。だから健全な判断が出来ないのです。私たちは注意しなければなりません。


⑤ばい菌の巣は私たちの外ではなく内側にある

主イエスがここでおっしゃっていることは、人の汚れは外から入って来るのではなくて、人の心の中から生まれるのだとおっしゃいました。皆さんは今年の4月から放送されいていたあんぱんというNHKの朝ドラを観ておられたでしょうか。矢内さんのアンパンマンにはバイキンマンが登場しますよね。バイキンマンはアンパンマンのライバルですが、どこかにくめないキャラでもあります。

 ファリサイ派や律法学者たちは、そのばい菌から身を守ろうといろんな規定を作りました。私たちは衛生上の観点から手を洗いますが、彼らは宗教上それが必要だと考えました。同様に私たちもこの世の人々を、自分は清い側にあると考え、汚れたものととらえて、裁いてしまうことがあります。でも本当は自分の内側が問題なのではと語られているのです。


⑥自分で内側は変えられない

しかし、私たちはなかなか自分で内側を変えることはできないのです。その根本的な心の中が整理されなければなりません。ある程度努力して行動を修正することはできたとしても、なかなか悪い思いから逃れられないというのが現状ではないでしょうか。

 イエスさまは、むしろ、自分で努力して自分を良い方向へ持っていこうとすることは立派なことですが、それでも限界があるのではないかと言われているように思うのです。


⑦ウェスレーの聖化観

 ウェスレーは聖化を強調しましたが、その聖化とは、Purity of Intention 動機の純粋さ、意図の清さが重要だと強調しました。それはウェスレー自身が最初、自分の努力で、自分の善行を積み上げて自分を厳しく律してクリスチャン生活を送り救いを獲得しようと考えていたことが原因でした。 これまでかというくらい、努力して善行を積み上げたとしても以前、自分の心には、「もっとやらなければならないのではないか」という思いがこみ上げてきて、救いの確証を得ることはできないのです。それはまだ、汚れを外側くるものだと考えいたからです。そこで、彼はやはり内側の動機を変えていただくことが重要なのだと考えたのです。


⑧恵みにより、信仰によって救われた

エフェソ2:8 あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。それはあなたがたの力によるのではなく、神の賜物です。

2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

 私たちの救いは恵み100パーセントによる救いであるということです。パウロの言っていることを受け取り違いすると、救いとは恵みプラス私たちの信仰となってしまいます。神の恵み50、人間の何か50で救われるのだとなってしまうのです。合せて100パーセント。そうではないのです。ここで伝えていることは信仰さえもが神の恵みなのであるとうことです。パウロは8節後半で、「それは、自分から出たことではなく、神からの賜物です」と、神の恵み100パーセントによる救いを誤解する者がいないよう、ダメ押ししています。

 「恵み」と訳されているギリシャ語<カリス>は美しいことばで、「親切、好意、愛顧」といったことを意味し、ヘブル語で恵みに相当することばは<ヘセド>で「いつくしみ」を意味します。

 つまり神が救ってくださる背後には、神さまの親切、愛、好意、いつくしみがあるからということですね。恵みが初めであり、終わりでもあります。これは霊的な高慢や自己を栄光化することの根本に斧をおくことでもあります。個人の功績への主張がない信仰は、空っぽの手を拡げ天からの祝福を受けるのです。


⑨星野富弘さん

 現代の日本のクリスチャンで一番有名な人は星野富弘さんだろうと思います。残念ながら去年帰天されましたね。星野富弘さんっていうのは首から下が不随です。彼は体育の先生をしていて、そして生徒を前にして演技をしたところ、首から落ちて、教師になってわずか二か月でしたけれども、若~い彼は意識不明、呼吸困難、呼吸停止、心臓停止、まさに生死の境目を通り、いのちは何とか取り止めますが、肩から下が完全にマヒで重度の障害を負って生きて、もう何年になりますかね?もう40年ぐらいになるんじゃないでしょうか。

 残された口に筆をくわえて描く花の絵、そして花の詩。それはいのちの尊厳を実に素直にやさしく歌い上げていますよね。

 彼の闘病記を読みますと、彼は友人の勧めで聖書を読み始めます。そして病院で洗礼を受けるんですけれども、ある日、自分がず~っといた整形外科から、腎臓に非常に問題が出るようになりまして、泌尿器科に病棟を移されるんですね。移された朝、看護婦さんが書類を持って来て、「星野さん、改めてあなたの情報をこの病棟として書き留めなければいけない」生年月日・職業・けがをした日。最後の質問が「特別な宗教はありますか?」という質問だったんですね。その時、彼の口からは、図らずも「キリスト教です」と言ってしまったんです。彼はその時のことをこういう風に記しています。

――そのまま読んでいきますね――

答えてしまってから、私の胸はドキドキ鳴り始めた。神と私のつながりを人に伝えたのは初めてのことだった。聖書も半分くらいしか読んでいない。教会にも行ってはいない私が、クリスチャンだなんて、はずかしくて言えるはずはなかった。しかし、「宗教は何か」と言われたとき、「別にありません」とはどうしても言えなかった。

 キリスト教……。看護婦さんは、少しも疑わずに私の言ったことを、紙にすらすらと、しかも当然のように記入していった。神様って、もしかしたらこの看護婦さんのような方ではないだろうかと思った。私のような者でも、「信じています」と言えば、神さまはうなずいて、天の真っ白い紙に私の名前を書き入れてくださるのではないだろうか。(――ここまで読み終わり――)

そしてしばらくして彼は、洗礼を受けます。まことにその通りだろうと思いますね。信仰はまさに神さまのプレゼントなのですね。ここでの星野さんは、抵抗を感じつつも、キリスト教を自覚し、何の誇れるところのない自分なのに神さまが受け止めてくださる。そのことに感謝する生き方です


⑩良い目で人を見る者へと

 主イエス・キリストによる罪の赦しを与えられることによって、私たちは清い者とされていきます。その時私たちはどのように変えられていくのでしょうか。それは先ほどの動機の純粋さとも関連するのですが、さきほどの様々な悪い思い等がなくなることが起こるのです。動機が純粋になる時に、敵意や悪意は消えていきます。逆に言えば、自分は神に赦されているという確信を与えられる時に、人に対しての優しさがにじみ出てくるのです。

 これは先ほどの無分別と関係してきます。私たちが相手を非難している時は、様々な理由づけが存在します。そのほとんどは、ファリサイ派や律法学者たちのように自分を相手より上に位置づけ、相手を判断しようとしている場合がほとんどです。その為に様々な理由づけをしては優劣をつけようとするのです。でも神さまの視点、あわれみと恵みと救いが与えられる時に根本的な変化が起こるのです。


⑪罪からの救いは神のもとにある

 私たちは、これからも時に傲慢になり、いろんな人を裁くことでしょう。そのような悪い思いがでてきた時には、もう一度自分の救いがどこからきたかを思い出しましょう。それは、真の神のもとにあるのです。

 神さまは完全なお方ですので、本来ならば、神を無視して生きてきた私たちは神から裁かれても当然なのです。でもそのような私たちを神さまは赦し、愛してくださるのです。その憐れみの心をもって人に接していくときにその裁きは消えて愛が満ちていきます。そのことを信じて今週も歩みましょう。

 キリストは、「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃるのです。(ヨハネ8・11) 人を罪に定めない生き方へと招かれていきましょう!!

 聖餐に与ります。この聖餐においてもう一度自分の信仰を振り返ってみましょう。

 
 
 

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