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自分の職務を全うする サムエル上16章1~13節

  • shimokitazawanazar
  • 2025年11月27日
  • 読了時間: 10分

与えられた職務を全うする  サムエル上16章1~13節


①はじめに

 皆さまおはようございます。本日は勤労感謝の日です。日頃働いてくださる皆さまに感謝しつつメッセージをとりつがせていただきます。本日はサムエル記に目を向けたいと思いますが、サムエルという書は、イスラエルの歴史の過渡期、それまでは部族連合体であったのですが王制になっていく過程を描いている書物です。

 皆さまもご存知のようにイスラエルの最初の王はサウルでした。サウルは非常に有能な王で、イスラエルを守る軍隊を設置し国を守りました。サウルの次がダビデです。少年ダビデで有名です。ダビデ像でも有名ですね。サウル王はベニヤミン族、ダビデはユダ族ですから後継者選びはなかなか難しい問題でした。まさに本日の16章にダビデが登場します。ダビデは王さまになっていくのですが、これも定められた職務です。それをどう彼は果たしていくのでしょうか。

 

②ダビデのキャリアの始まり

 ダビデは、ベツレヘムという小さな村に住むエッサイの息子でした。ダビデはその末っ子だったのです。本日の箇所はダビデの父であるエッサイのところに、民の指導者兼預言者であったサムエルが尋ねてくる場面です。そしてここで、生け贄の儀式をして、その儀式にダビデは出席は許されなかったのですが、王さまとして定められていく様子が書かれています。実際に王になったのは16年後ですが、その最初の場面がこの日です。ダビデはこの16章で王の武器を持つものにされました。キャリアの最初の始まりですね。


③主のなさること

 そのダビデを王さまにつける使者として神からその使命を与えられたのがサムエルという人物でした。これに大事な職務となります。私たちはそれぞれ役割というものがあり、自分にしかできないことを神さまは為させようとされているのです。そのことを大切にしたいと思います。サムエルの役割はダビデを祝福することでした。

 さて、ダビデに王としての油を注ぐことになるサムエルは、あるジレンマに陥っていました。

サム上 16:1 主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことで悲しんでいるのか。私はイスラエルの王位から彼を退けた。角に油を満たし、出かけなさい。あなたをベツレヘム人エッサイのもとに遣わす。私は彼の息子の中に、王となる者を見つけた。」

 実は、サウルも彼が油を注いで王にしたのです。それ故に彼はそのことを悲しみました。しかし、これは主なる神の指示を彼は実行したのですが。それが彼の役割だったのです。神さまがその人を選んだということを人々に明らかにするのが彼の仕事でした。でもサウロを退け、ダビデを王にすると神がおっしゃった途端、彼は心を痛め、悲しみました。神さまはそれをわかったかのように、でもはっきりと彼にはダビデ王を退けたと言われるのです。


④サウルへの思い入れ

サム上 15:11 「私はサウルを王に立てたことを悔やむ。彼は私から離れ去り、私の命令を実行しなかった。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に叫び求めた。

 そのことは既に15章ではじまっていたのです。ここに、「サムエルは深く心を痛め、夜通し主に叫び求めた」とある通りです。その時にも彼は主がサウルを見捨てないように願ったのですが、それが聞き入れられず、政権交代が起ころうとしているのです。サムエルのこの思いはどっから来るのでしょうか。自分が聖別したのだからサウルの失敗は自分の失敗と思われるのではないかと心配していたのかもしれません。もしそうだとしたら、でもどこかに、神の指示で行っただけなのに、自分がそれをしたのだという自負心があったということになりはしないかと思います。

 しかし、主はそれを拒否されました。サムエルはまだ気づいていませんでしたが、主は既に新しいことをなそうとされていたのです。それなのに自分の思い入れにこだわって、自分の職務を放棄してはならないとおっしゃるのです。何よりも新しいことを為そうとされているのは神であり、それは国家全体にかかわることです。自分の沽券にこだわってどうするのかということです。それが私たちの役割なのです。


⑤主のみ業を受け止めることの困難さ

 しかしサムエルにとってこれは命がけのことでした。2節をご覧ください。

サム上 16:2 サムエルは言った。「どうして、私が行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。」というのもサウル王は現在王として君臨しているのですから。ダビデに油を注ぐことはサウルを裏切ることになります。預言者たちの職務も相手が誰であれ、神さまの言葉を告げることでした。命をかけて預言者たちは主の御心を示していったのです。馬鹿にされようが、文句を言われようが、それが彼らの主から与えられた職務であったからです。

 その職務を全うさせる為に2節で続けて知恵を与えられました。「主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえを献げるために来た』と言いなさい。」これは口実です。これはとてもクレバーな作戦です。彼は祭司ですのでいえにえをささげることは自然です。それを口実にダビデに油をそそげというのです。


⑥励ます主

 主は用意周到に準備を告げます。

サム上 16:3 いけにえを献げるときには、エッサイを招きなさい。あなたがなすべきことは、その時に私が教える。あなたは、私がそれと告げる者に油を注ぎなさい。」サム上 16:4 サムエルは主が命じられたとおりにした。

 そしてサムエルはその通りに実行しました。しかし、聖書は「彼がベツレヘムに着くと、町の長老たちは不安そうに出迎えて言った。「お出でになったのは、平和なことのためですか。」と問います。

 15章において、サムエルはサウルに対して、「主はあなたをイスラエルの王位から退けられた」と言われ、サウルとは袂を分かっていましたのでそんなサムエルを町に迎えたのならばサウルに疑いをかけられると不安だったのです。だからこそ、この言い訳の知恵は自分は主に礼拝する為に来たのだよと言えますのでとても有効でした。


⑦主の選び

そしてここからがおもしろいところです。このようにしてエッサイの子どもたちと会うことになったサムエルです。サムエルは礼拝後にエッサイの息子たちを招きます。まずエリアブに目をとめて彼がその人だと思います。しかし、そこで言われたことは

サム上 16:7 しかし、主はサムエルに言った。「容姿や背丈に捕らわれてはならない。私は彼を退ける。私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る。」

 神の視点と人の視点の違いがここにあります。一目惚れという言葉がありますが、私たちはどうしても容姿をみてしまうところがありますよね。結局サムエルはエッサイの7人の息子たちと会いますが、お目当ての人はいませんでした。そこで息子はこれだけかと聴くと、

エッサイは言った。「末の子がまだ残っていますが、羊の群れの番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、彼を連れて来てください。彼が来るまでは、私たちは食卓に着きません。」

 

⑧ダビデこそ主に選ばれた人

いよいよダビデが連れてこられます。そして彼が選ばれたのです。

サム上 16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。彼がその人である。」

 12節に、「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」とありますが、ダビデはこれだから選ばれたわけではありません。でも一般的にダビデ像はきれいな少年というイメージが多いですよね。でも主が選んだ理由は他にありました。


⑨主は心によって見る

 ダビデが選ばれた理由が7節にありました。

「私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る。」

 という言葉がそれです。これが主がダビデを選んだ理由でした。ダビデの父はエリアブこそふさわしいと考えましたが、それは外見や立場から選んだものでした。でも主の選びは目に映ることによってではなく、心を見るということでした。

でもこの言葉、「私は心を見る」をもう少し詳しく考えてみましょう。

 以前の新共同訳ですと、ここは「心によって見る」と訳されています。私たちの今の訳は「心を見る」です。そうすると、問題は外見か、内側かということになってしまうのではないでしょうか。しかし原文においては、「~によって」という前置詞がつけられているのです。同じ前置詞が、「目に映るところを見るが」というところにもつけられているのです。

 ここを直訳すると「人は目によって見るが、主は心によって見る」となるのです。それは外見だけで人を判断するか、内面を見るか、ということではありません。

 

 ⑩ある解釈

「人は目によって見る」というのは、私たち人間が、自分の感覚に基づいて、外見だけでなく内面も含めて総合的に人を判断していることを語っているのです。

 それに対して「主は心によって見る」は、主なる神は、ご自身のみ心によって人をご覧になっているということです。主はそのみ心によってダビデをご覧になり、お選びになったのです。主は、ダビデの外見の美しさや、その心が正しく、正直で、信仰深いことをご覧になったのではありません。人をそのように見るのは「目によって見る」人間です。神は、人の外面でも内面でもなく、つまりその人がどういう人かによってではなく、ご自分のみ心に基づいて人をご覧になり、選び、立て、用いられるのです。ですから、ダビデは何故神に選ばれたのか、という問いの答えをダビデの中に見出すことはできません。その答えは、主なる神のみ心にこそあり、そこにしかないのです。


⑪私たち一人ひとりもそう

 それは何も驚くべきことではありません。私たち一人ひとりにおいて、それと同じことが起っているのです。私たちは主なる神に選ばれて、信仰を与えられ、教会に連なる者とされています。洗礼を受けていない方々も、他教会の方々も、主が招いてくださっているのです。主が私たちをこの教会の呼び出されているので、その招きに応えて私たちは下北沢教会へ来たのです。ここにおられるすべての皆さんに神さまは大いなる計画、神のみこころによって招いてくださったのです。


⑫ナタンのダビデに関する幻

 皆さま、サムエル下7章12節をご覧ください。

サム下 7:12 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの末裔、あなたの身から出る者を後に立たせ、その王国を揺るぎないものとする。

サム下 7:13 その者が私の名のために家を建て、私は彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。

サム下 7:14 私は彼の父となり、彼は私の子となる。彼が過ちを犯すときは、私は人の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。

サム下 7:15 私はあなたの前からサウルを退けたが、サウルから取り去ったように、その者から慈しみを取り去ることはしない。

サム下 7:16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。』」

サム下 7:17 ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに語った。

 でもそれだけでなく、これが本当に実現するのはイエス・キリストがお生まれになったからです。使徒言行録13章23節を読みます。

使徒 13:23 神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。


⑬選ばれた者の務め

サム上 16:13 サムエルは油の入った角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。この日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

 ダビデはどのように用いられるようになったのでしょう。それがでてくるのは次の節と23節です。こうあります。

サム上 16:14 主の霊はサウルから離れて、主からの悪い霊が彼をさいなむようになった。  

サム上 16:23 神の霊がサウルを襲う度に、ダビデは琴を手にして爪弾いた。するとサウルの霊は休まり、良くなって、悪い霊は彼を離れた

 ダビデはサウルを慰めるのです。自分の職務を知りつつ、精一杯サウルを慰めました。つまりダビデの職務は前任の王に仕える役目だったのです。ここにダビデの偉大さがあります。前の時代の王さまを敬い、精一杯の奉仕をしながら、彼は将来王としての職務の為に備えました。神さまの訓練を受けつつ、その職務を果たしたのです。

 私たちも先に選ばれた者として、私たちの周りにいる人々に奉仕をして仕えていく時に神の愛が必ず伝わるはずです。

 そのことを思いつつ、勤労感謝の聖日礼拝に、私たちは自分の働きが必ず相手の為になることを、人類の為になることを覚えて歩みましょう。

 
 
 

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