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10月5日 礼拝説教 新しい戒め マタイ19章13~30節

  • shimokitazawanazar
  • 10月12日
  • 読了時間: 9分

10月5日 世界聖餐日  説教 新しい戒め マタイ19章13~30節


①はじめに 世界聖餐日

 皆さまおはようございます。10月になり世界聖餐日となりました。世界中の皆さんと共に聖餐に与り神さまの恵みを新たにいただきましょう。

 本日は世界聖餐日ですが、世界宣教の日ともされている大切な聖日です。新しい戒めと題してお話させていただきます。

 

 場面はイエスに手を置いていただくために、人々が子どもたちを連れてきた場面です。

マタ 19:13 その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

 13節をみると「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。子どもたちを叱ることはさすがに出来なかったのでしょう。そこで弟子たちは大人に対して

叱ったのでしょうね。 それに対してイエスさまは

マタ 19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちをそのままにしておきなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。

 子どもたちは教会の未来です。現在は世界宣教のこの日に私たちは子どもたちや青年を大切にする教会を形成する必要があることを改めて思います。私たちの教会は青学生を受け入れてきました。同じようにすべての人を受け入れていきたいと思います。


②永遠の命とは?

その物語と関連して出てきたのが富める青年の話です。

マタ 19:16 すると、一人の人がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」

 この青年は永遠の命について質問したのですね。先週の召天者記念礼拝でイエスさまを信じた私たちは肉体的な死をも超える永遠の命においてむすばれていることをお話させていただきました。ところで、永遠の命とはないでしょうか。それは死んでも生きている命が永遠に続くことではありません。とはいえ、近年は不老不死の問題がだいぶとりざたされていますね。コマーシャルもアンチエイジング商品で満ちあふれています。でも不老不死は決して永遠の命ではないのです。肉体の生命がいつかは終わることが自然です。。

 でも聖書の語ることは、永遠の命というのは、その肉体の死が、私たちの歩みの最終的な帰結ではない、私たちの歩みは、死んでしまっておしまい、ではなくて、肉体の死を越えた彼方に、神様の恵みによる新しい命が与えられる、ということです。そこに苦しみや悲しみがあったとしても、それでその人生が決まるのではなく、神さまの恵みによって、死や環境に負けない新しい力を得て歩むことができるということです。だからこそ彼は「先生」と呼びかけ、神さまが与えてくれる永遠の命をいただこうと願いました。


③永遠の命をもらう為の善き行い 

 ところが、永遠の生命をいただくための条件として彼はどう考えていたのでしょうか。この問い自体にすでにこの人の考えが示されています。

「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか 永遠の命を得る、これおこそ神さまの救いに与るには必要なのですが、彼はその後、「救いを得るためには何か善いことをしなければならない」というように彼は考えていたのです。

 このことは、一般的な考え方であるとも言えます。一般的な考えでは、他人に親切をして、困っている人を助けたり、たくさん寄付したら御利益があると考える人は多いのではないかと思います。善きこと、善行にこだわる人は意外と多いのではないかと考えます。


④イエスさまの答

ところがイエスさまの答えは意外なものでした。

マタ 19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はおひとりである。」

 イエスさまは善いことについてではなく善い方について答えられたのです。

問題はそもそも、どれだけ善い行いをしたかではないのだ。あなたは勘違いしているのではないだろうか。どれだけ善い行いをしようとしてもそこには満足は得られないのではないだろうか。そのような形で永遠の命を得ようとしてもそれは徒労に終わるのではないか。重要なのは、ただ一人善い方であられる神をみつめ、その恵みを求めていく姿勢が必要なのではないか。私たちが見つめるのは自分の善き業ではなく神さまではないだろうか。そのことを示されたのです。

 十戒というものは元々出エジプトの民に与えられたもので、神さまを見つめ、神さまとの正しい関係を維持する為のものであるのに、いつの間にかその精神を忘れ、どれだけ正しく守られているのかということに焦点がいったのではないかというのです。ここで、重要なのは、唯一の神さまの恵みによって生かされている人間の根本的な姿が描かれているのです。それが「善い方はおひとりである」という言葉の真意です。


⑤イエスさまの意図

 この青年が戸惑っているように見えましたので、イエスさまはさらに問いをかけます。

マタイ19:17 命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。

マタ 19:18 彼が「どの戒めですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、

マタ 19:19 父と母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

 一見すると、この問いはさきほどのイエスさまの答えと矛盾するように思います。善い方が重要だとおっしゃったばっかりなのに、なぜ戒めを守ることを持ち出されるのだろうか。読んでいる私たちも少し混乱しますよね。

さて、ここにでてくる戒めは、皆さんもご存じのように十戒の後半部分ですね。人間同士の関係の十戒がここに記されています。これがイエスさまの答えでした。でもそれはこの青年にとっては満足できない答えでした。彼はこう言います。


⑥青年を諭す為に

マタ 19:20 この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

 実は十戒を守ることはユダヤ人には当然のことで、特別立派なことではありません。特にこの青年はひとよりも努力してその一つ一つを守ってきたのではないでしょうか。「そういうことはみな守ってきました」という彼の言葉には尊大なところはなく自負があったのです。彼の関心は、それ以上の何かが必要なのではないか。まだ欠けているのかという問いかけでした。

 マタ 19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」

 この言葉は少々理解に苦しむかもしれませんが、マルコによる福音書を見ると、この言葉の前に「彼を見つめ慈しんで言われた」とあります。イエスさまは彼のことを思ってあえて少々チャレンジされるのです。ですからイエスさまの上の言葉は悪意のあるチャレンジではありません。イエスさまはこの青年にわかってほしいがために無理なことを語られます。それがこの言葉です。

 でもこの言葉はかなりショックだったはずです。永遠の命をもらうために持ち物を売り、貧しい人に与えなさい」と言われました。

 これはこの文脈で言えば、「空っぽになりなさい」ということですよね。自分がこれまで守ってきたという自負を捨てなさいということですね。これまで自分が積み重ねてきたものをすべて捨てて、むしろ天に宝を積む生き方、神さまの方向を向いて、神さまから恵みを受ける生き方をしなさいという命令でした。ここでイエスさまがおっしゃりたかったのは、善いことを本当の意味で出来る善い方は神さまひとりであり、人間には実現できないということなのかなと思います。


⑦青年の反応

 ところが青年の反応は22節にあります。

マタ 19:22 青年はこの言葉を聞き、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 自分にはそのようなことは出来ないと思ったからです。自分を正しく守り、自己を節制していることはちゃんとやれいいるけれど、他者の為に自分の持ち物を売り払う準備は出来ていませんでした。ここで彼は自分の尺度の限界を思い知らされました。

 ここでイエスさまは彼の生き方を根本的にひっくり返そうとされているのです。今の生き方、自分の善い行いという財産を積み上げる生き方を捨てなさいと言っておられるのです。それでもそのことを受け入れる準備が出来ていなかったこの青年は立ち去りました。今の自分を築いた全てを捨てるなんて出来ないと考えたのです。逆に言えばまだ自分の生き方の固執していたということです。「悩みつつ立ち去った」という言葉に青年の気持ちが表れているように思います。

 

⑧天に宝を積むとは 子どものように神の国を受け入れる

 そのことを考えれば、「天に宝を積む」生き方とは、神さまを信じ、神さまとの関係を大切にして、自分の強さではなく弱さを知りつつ、そのような足りない人物をも受け入れ、愛してくださる神さまに頼りつつ生きなさい」ということです。自分の力を積み重ねて救いを獲得する思いを捨て、恵みにより天に宝を積む生き方をすることによって、神さまの恵みの富が私たちの為に天に積み上げられるのです。逆に神に頼らない生き方をしようとすればその富は失われてしまうのです。

 しかし、現実にこのことの何と難しいことでしょうか。自分がまだまだ出来ると感じている方が多いのです。私という人間をよく知ることが出来ている人にはこのような気負いはありません。むしろ自分の足りなさを知っている謙虚な人を子どものようにという言葉で言い表しているのです。

子供たちは、神の国に入るためのどんな条件をも満たすことができないのです。恵みによって与えられる神の国をただいただくだけ、それが子供たちです。主イエスはここでこの人にも、「子供のようになって神の国を受け入れなさい」と言っておられるのです。

⑩ 賛美歌21 197番 ああ主のひとみ

 説教の前に賛美歌21よりああ主のひとみを歌いました。一節をもう一度読みます。

1.ああ主のひとみ まなざしよ

きよきみまえを 去りゆきし

富める若人   見つめつつ

嘆くは誰ぞ   主ならずや


 この最後に「嘆くは誰ぞ主ならずや」とありますが、これは愛故の嘆きです。イエスさまのこの青年に気づいてほしかったのです。自分に頼る生き方をやめて神さまと共に生きようと。そのような目でイエスさまは彼を見つめておられました。何とか気づいて欲しい。彼のことを慈しみ、見つめてくださっていたはずです。このまなざし、視線で一番思い出すのがペトロが三度イエスを知らないといった場面です。三度拒否した時にイエスはペトロを振り向いたとあります。そのまなざしは決して批判するまなざしではなく、憐れなペトロを見つめ、立ち直りを促すようなまなざしだったはずです。


4節の最後 友よ帰れとまねきつつ

      待てるは誰ぞ、主ならずや

 とあります。主は待っていてくださいます。私たちの帰還を。そのことを覚えつつ世界中の皆さんと共に聖餐に与りましょう。罪深さの中にも愛のまなざしを注いでくださる主のひとみを信じて。


⑪子どもように神の国を受け入れる  招きの言葉

 ですから21節の主イエスのお言葉は、永遠の命を受け継ぐための厳しい条件を示して、それを満たすことのできない者を救いから締め出そうとしておられるのではありません。むしろ主イエスはこの人を、そして私たちを、神様の恵みによって生きることへと招いておられるのです。永遠の命を受け継ぐことは、何か特別に善いことをすることによってではなくて、ひたすら神様の恵みによりすがることによってこそ与えられるのです。招きの言葉を受け入れて、聖餐において私の居場所を確認して歩みましょう。

 
 
 

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