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10月19日説教 天国に市民権を持つ者として生きる マタイ25章1~13節

  • shimokitazawanazar
  • 10月26日
  • 読了時間: 11分

10月19日 マタイ25章1~13節 天国に市民権を持つ者として歩む


①はじめに 10人のおとめ

 皆さまおはようございます。10月第3週となりました。本日も天国のたとえから有名なたとえを学びます。10人のおとめのたとえ話です。

 この物語が語られた時は、イエスさまの十字架が近づいている時でした。おそらく多くの人が終末が近いのではないかと思うほどの切迫した状態でしょう。特に迫害が強ければ強いほど、終末においてイエスが来られる日を今か今かと待ち望むものです。

 主イエスはそのような弟子たちに、終末に備えるクリスチャンの姿勢について、賢い者と愚かな者との対比によって語られている場面が本日の場面です。


②前提となるみことば

マタ 7:21 「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。

 ここには、なかなかわかりにくい言葉が語られています。意味としてはうわべだけで「主よ、主よ」と言う者ではなく、心からそれを信じて御心を行う者が天の国にはふさわしいということですね。

 「主よ」と皆さんはおっしゃることはありますか。私はしょっちゅうあります。何をするにしても、主よ助けてください。これから授業をします。主よ助けてくださいと祈りますから。主よ、これからメッセージを取り次ぎます。信徒の皆さんの魂に届くようにしてください。それは信仰生活の基本ですよ。もし皆さんの中で「神さま」「主よ」と呼びかけなくなったらそちらの方がさらに問題だとも言えるでしょう。

 それでも、私たちは自己吟味をしなければなりません。それがいつの間にか形骸化してはいないかということです。形ばかりでもし実質がなくなっていたら問題だからです。一体この人の「主よ、主よ」にはどのような思いがあったのでしょうか。

 

③信仰深いと自覚している人

 マタ 7:22 その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。

 私は、この人には2つ問題があると考えます。

 一つは、自分の信仰の功績をこれみよがしに言いふらす姿勢ですね。特に、「御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行う」というのは人間にはなかなか出来ないことです。たとえ、そのような賜物が与えられたとしても、それをたくさん行ってきたと豪語できないはずです。それを豪語できる姿勢は問題ではないかということです。神さまは高慢を嫌われます。この人は自分がわかっていないのです。客観的に自分を見つめる目を持つことは重要ですが、信仰的にも客観的な目は必要なのです。

 もう一つは、言いふらす為に主を利用することです。「主よ、主よ」と呼びかけていますが、この言葉は、自分の弱さからでたものではありません。自分ではにっちもさっちもいかなくなって神さまの助けを仰ぐ姿勢ではないのです。自分の功績を持ち上げるために主を利用してしまうことを私たちは警戒しなければなりません。 


④主の宣言

 そのような姿勢で主に対して臨む人に主はこう宣言されます。

マタ 7:23 その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」でもここでは、主よと言っていれば天の国に入ることができるわけではないということは、救いにあずかれないこともあるのだということです。私たちも自分の本当の姿というものを意識する必要があります。でも、私たちはなかなか自分が見えないものですね。 以前、遊園地に行った時に、鏡の間というのがあって太ってみえる鏡がありますよね。ある時に、その鏡を見てて妙に太っている人がいるなあって思ったら私の姿でした。人はなかなか自分の状態に気づけないことがあるんですよね。

 最後の審判の時に主イエスからこのように言われたらと思うだけで耐えられない感じです。だからこそ、私たちは自分の信仰が正しいものであるかを吟味する必要があります。それが唯一可能な場所は、私は聖餐式だと考えています。聖餐式の時に、自分の信仰を客観的に問われるのです。マタイ7章ではこの後に山上の説教が始まりますね。岩の上に信仰を建てようと薦められます。今日はもう一度、自分の信仰を振りかえりつつ聞いていただきたいと思います。


⑤十人のおとめのたとえ

マタ 25:1 「そこで、天の国は、十人のおとめがそれぞれ灯を持って、花婿を迎えに出て行くのに似ている。

マタ 25:2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

マタ 25:3 愚かなおとめたちは、灯は持っていたが、油の用意をしていなかった。

マタ 25:4 賢いおとめたちは、それぞれの灯と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

 当時のユダヤの婚礼はまず籍を入れてから、そのお祝いとしての喜びの祝宴が行われるのが通例だったようです。まず花婿は夕方になって行列をつらねて、松明を灯して花嫁を迎えに行くのが通例でした。花婿が、花嫁を迎えて、花嫁の付添人とともに、これまた行列を作りつつ会場に到着するという手順でした。それはそれは盛大な宴会で、7日間祝宴が続きます。


⑥花婿とは 10人の乙女とは

これからがこのたとえの解き明かしです。花嫁を迎えに行く花婿はキリストのことです。そしてこの花婿を待つ花嫁の付添人である10人の乙女は私たちクリスチャンのことです。賢い乙女たちは油を用意して、灯火を絶やすことがない準備をしているのに対して、愚かな乙女たちは油を用意しておらず、クリスチャンとして歩んではいますが、終わりの備えが出来ていない人々を指すのです。

 この物語の興味深いところは5節のマタ 25:5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆うとうとして眠ってしまった。というところです。

 人生にはしばしばまさかという急転直下の坂があるのですね。通常花婿が来るのは遅れようがないのです。大事な婚宴です。皆さん集まってこられます。そう言えば和田誠さんの結婚式が迫ってますね。皆、用意周到にでかけるのですが、遅れることが多いのですね。これまで結婚式に花婿が遅刻してきた事例を一件だけ知っています。何とか間に合ったのですが、待っている人、特に花嫁はやきもきですよね。

 さらに、ここには皆うとうとして眠ってしまったとあります。眠ってしまったということの意味は何なのでしょうか。それは、やはり、先ほどの自分の本当の姿に気づかなくなるということだと思います。自分のあるべき姿を忘れてしまう。肉体は弱いので眠ってしまうのです。


⑦そして最後の審判は突然起こります。

マタ 25:6 真夜中に『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。

マタ 25:7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれの灯を整えた。

 花婿の来臨が予想以上に遅くなり、皆がうとうととしている中、真夜中になって、「花婿が来た。迎えに出なさい」という叫び声を聞きました。時ならぬ時に花婿が来たのです。そしてその時に賢い乙女と愚かな乙女の差がでました。多くの人はこのことに驚くことでしょう。私は、いろんな事を割と早めに準備する方だと思います。それでも慌てます。最近は、合唱の人たちが思いがけなく来ると慌てます。全く予定に入れてなかったことに慌てます。それでも何とかなるのですが。そこで愚かな乙女たちはあることをお願いします。

マタ 25:8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。私たちの灯は消えそうです。』

マタ 25:9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

 賢い乙女たちは、その要請を断りました。私はこれは、事実を伝えて相手に次の行動を促す言葉だと思います。ですので、私たちの聖書ですと、命令形で訳していますね。自分の分を買って帰なさいと。あたかも今あなたがすべきことは、しっかりとそれに対処することだよと言っているかのようです。私はこの賢いおとめたちは親切な人だと思います。またよく状況が判断できている人たちです。そして最後にアドバイスさえ与えているのですから。


⑧油が意味するもの

 それではこの油が意味するものは何なのでしょうか。ここでの解き明かしの鍵は、9節の言葉です。『分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』私はこれは信仰の本質を意味していると考えています。ある解釈者は油は聖霊であると語っています。聖書に「誰も聖霊によらなければイエスを主とは告白できない」と語られています。聖霊は神さまからその人に与えられるものです。その聖霊はましてや貸し借りできるものではありません。自分の信仰を相手の信仰で代用することは出来ないのです。自分の分を店で買うというのは、自分のものは代用不可ですよという意味です。そういう意味で言うと、私はこの油とは信仰ではないかと考えています。神によって与えられる賜物である信仰を感謝して受け入れてそれを生かしていくことが重要なのではないでしょうか。

 

⑨愚かな乙女たちの問題点

 何が彼女たちに欠けていたのでしょうか。油断大敵であった。肝心なものを用意していなかった。いろんな事が言えると思います。でも一番欠けていたものは、信仰を育てなかったということです。自分に与えられている信仰は栄養を与えていかないと枯渇していくのです。

 フィリピ書をお開きください。

  フィリピ2:12……だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私がいたときだけでなく、いない今はなおさら、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい。


この説教の英語のタイトルは、「自分の救いを達成するように努める」で、“Working Out Our Own Salvation”です。自分自身の救いについて、work outする、達成するために努力する、ということが言われています。


⑩信じた後の問題

 信じる前は100%は神さまのプレゼントを受け取るのですが、信じた後、今の私達んは何が求められているのでしょうか。つまり受け身となって信じることがすべてではない。自分が信じたイエス・キリストに対する信仰を働かせて、日常生活の中で働かせて、キリストについていき、忍耐をもって試練に耐え、希望を抱いて信仰者として生きることに努めなさい、というパウロの言葉。 「救いを達成する」という言葉は日本語では色々なんですが、英語ではいつもワークアウトです。ギリシャ語では、カテルガゾマイという言葉ですが、あるゴール(救い)に向かって日々鍛錬を重ねるという、そういう意味を持っています。 私たちのいま現代社会でワークアウトという時には、筋力トレーニングですとか、あるいはダイエットですとか、「ワークアウトする」って言いますでしょう?


⑪またフィリピ1章6節にはこれを励ます言葉が書かれています。

1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

良い業というのは、神の救いです。救いは神によって始められ、そして最後イエス・キリストの日が来るまでにそれを完成してくださる。始めて、継続して、完成してくださるのは神さまですね。このことはフィリピの手紙の2章に戻っていただきますと、すごくよくわかります。2章13節です。

2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

つまり神は救いをワークアウトしてくださる。イエス・キリストについて行こうという志を私たちの内側に与えて、イエス・キリストについていく力を私たちに授けてくださる。

 

⑫神さまの手は私たちの内で働く

人を愛そうという志を与えてくださり、あるいは忍耐しようという志を与えてくださり、一生懸命我慢する、これも良しとするという志を与えてくださり、それらを実行する力を神は与えてくださる。神さまの手は、私たちの内側に入れられたり出されたり、入れられたり出されたり。その時私たちは受動的に立っているのではないです。私たちは自分の救いをワークアウトする。信仰をワークアウトする。信仰を働かせる。信仰をもって祈る。だから信仰をもって聖書のみことばを読み、聖書のみことばを自分自身に当てはめる。

 救いが御言葉において提供されているのにも関わらず、それをただで受け取る事のできる時間をそのまま見過ごしてしまってはなりません。私たちは今こそ、聖霊と神の恵みを求めなければなりません。


⑬終わりの日が来てからでは、遅すぎるのです。10~12節をご覧ください。

マタ 25:10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が着いた。用意のできている五人は、花婿と一緒に祝宴の間に入り、戸が閉められた。

マタ 25:11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。

マタ 25:12 しかし主人は、『よく言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。

 すべて後の祭りです。この前も申しましたように、人生の最後の時まで待ってクリスチャンになってもいいじゃないかという人もおられるでしょう。でもそのような人には、主は「私はお前たちを知らない」と語られ事でしょう。

このたとえ話で言えば、花婿の到来の時のために明かりを灯し続けるのが務めです。そのために、先ず必要なのは油です。肝心なものを準備するのは、言うまでもなくその人の責任です。特に大切な婚姻の喜び、つまりこれは救い主を迎えて神さまの子とされた喜びの時、それを軽んじてしまったらそれは愚かなことになります。

 

⑭今からでも遅すぎない

 愚かな乙女と賢い乙女、この物語が語ることは、このおとめたちが家を出た時にすでに勝負は決していたということです。中東では、女性は暗くなってから自分の家の外に行きますから灯をもっていきます。油は必需品なのです。その必需品は絶対余分に持っておくべきものだったのです。

 ところがさらに重要なのは灯火はつけていないとすぐわかりますので誰もが持つものでしょう。でも油は私たちが光輝くように備えるもので目立ちません。

でも油は原料であり、私たちを生かす信仰であり聖霊です。

 それを大切にして歩みましょう。将来的に私たちも「そら、花婿だ。迎えに出よ!」という叫びを聞くとき、どうかわたしたちが共に主を迎えることができますように。

 
 
 

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