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9月7日(日)神さまの忍耐 マタイ13章24~30節

  • shimokitazawanazar
  • 9月7日
  • 読了時間: 11分

神さまの忍耐 マタイ13章24~30節


①はじめに

 皆さまおはようございます。9月になりました。本日は聖餐式がありますので短く話させていただきます。

 本日の箇所は、天の国についてのたとえです。̔ βασιλεία τῶν οὐρανῶν

このギリシャ語はバシレイア、トーン、ウラノンと呼びます。バシレイアは国という意味、ウラノンは天です。

 皆さんは天の国をどのように考えておられるでしょうか。しばしば臨死体験をした方はお花畑というイメージを語っておられますね。でも聖書の天の国はそのようなイメージではありません。

 天というのはマタイでは神さまを言い換えている言葉です。ですから天の国は神の国と同じ意味です。そしてこれは「神さまの国」であり、意味するのは神さまの支配という意味です。イエスさまが来られてこの地上に神さまの支配が確立されたのです。神さまに救われるとはこのようなものですよと語っているところが本日のところです。

 ところが、現実の問題として、この世界の人はこの世が神さまの支配があるとは考えていません。自分たちで自分の人生や世界を動かしていると思っている人が多いのではないでしょうか。


②天の国は「良い種を蒔いた人に似ている」

イエスさまは、その中で上のように言われました。皆さんがよく知っている種まきのたとえは13章の1節~23節に記されています。蒔かれる種は神さまの言葉ですね。その言葉がそれぞれの土地、つまり心に落ちる。それが芽を出し、育ち、その心の土壌が養われると実が実るというたとえ話です。そのようにして神さまの救いを受けた私たちが、神さまの支配を受けて恵みの中を成長していく姿が描かれていました。その中では、良い土地におちた種が、実を結んで、百倍、六十倍、三十倍になるというのです。それを受けて、本日の箇所には「天の国は良い種を蒔いた人に似ている」とはじまっていくのです。ただし、表題でもありますように「毒麦のたとえ」が書かれています。

「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。(24~25節)

 人々が眠っている夜の間に敵が来て、同じ畑に毒麦の種を蒔いてしまったのです。それで、一つの畑に良い麦と毒麦とが共に芽生え育つということになってしまいました。これはなかなか大変なことになりました。つまりこのたとえ話では蒔かれる種ではなく、種が成長して麦になった時の麦の違いが想定されています。良い麦か毒麦かという違いが人間の間にあるということです。


③神の畑に植えられた麦であるわたしたち

 種をまく人のたとえではこのことが、まかれた種はそれぞれの場所に落ちましたね。道ばた、石地、茨の中、そしてよい土地にまかれた種というように蒔かれた種の場所が問題だったのです。でもこのたとえは、その種がまかれた、育っていくのですが、その種そのものが私たち人間を象徴しているのです。私たちの神さまはご自分で畑に種を蒔きに行き、それが芽生えて育っていく。私たちはその神の畑の中で育つ種なのです。


④教会には、良い麦と毒麦が混在している

 この神の畑とは教会のことです。下北沢教会にはこれまでたくさんの方々が洗礼を受けられて教会員となってくださいました。私たちは下北沢教会という神の畑で育つ麦です。その教会に他の方々の麦と共に植えられ育まれているいのです。ところが、そこに敵が来るのですね。この敵が一体どのような敵なのかここには書かれていません。通常は神に敵対する力、つまりサタンが働いて、そこで毒麦が育つというのです。                     こういう話を聞くとドキッとしますよね。私は一体どっちなんだろう。ひょっとした毒麦ではないかという心配ですね。教会は人間の交わりでもありますので、そこには弱さやほころびもでてきます。時には牧師につまずく人もおられます。大変申し訳ないと思います。そうすると私も毒麦だということになってしまうのです。教会の中でもあの人に傷つけられたということが起こるのが現実ですね。ましてや、教会に一度来ているのに、教会に来なくなったりする人もおられます。信仰を捨ててしまったのかなという方もおられます。いろんな理由付けができます。でもこのたとえは、そのような教会の現実を包み隠さずここには記されているのです。                        

⑤ 僕たち登場!

マタ 13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』

 そのような中で登場してくるのが僕たちです。この僕たちはこの畑の持ち主であり良い種を蒔いた主人に仕える人々です。彼らは良い種を蒔いたのになぜ毒麦が生えたのかと質問します。そこで主人は

マタ 13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、

とあります。僕たちはこのことを心配して、毒麦を抜いて集めてきますといったのです。このままではいけない。何とかしなければと思ったのでしょう。毒麦を早めに抜き取れば何とか畑は体裁を保ってよい麦だけが成るのではないか。つまり教会はよい人だけが存在し、神に選ばれて救われたのだから悪い麦はぬきとって教会を純粋化しようと考えたのです。


⑥ピューリタン教会

 英国で生まれた教会はメソジスト教会だけではありません。英国の中でメソジスト教会と共に生まれたもう一つの教会にピューリタン教会があります。英国教会のやり方に不満を持ち、もっと教会を純粋化(purify)しようと考えた人たちがいたのです。この言葉からピューリタンという言葉が生まれました。このピューリタンの人は神との契約(個人と神との関係)を大切にして、神さまとの交わりを深めていこうとしました。この人たちからピルグリムファーザーズがでてきますし、天路歴程を書いたジョン・バンヤンが登場します。彼らはピューリタン革命を起こしました。おそらくこのみことばの僕が自分だと考えたのでしょうね。


⑦私たちの教会

 私たちの教会でももしある人がとても他の人を傷つけた場合に、どうするでしょうか。その傷つけた人に対して注意をして、早めにその人が健全な信仰に戻れるように努めるということもできるでしょうか。私たちもそのようなことを思います。「教会ではこんなことがあってはいけない。何とかしなければ」と思うのはこの世の常です。毒麦を早めに抜き取り、良い人だけがいる教会にしようと考えるのですね。何かがあって教会から遠のいている人を裁くこともそこから起こるのかもしれません。教会は良い麦だけの畑であるべきだと考えるのも無理からぬようにも思います。それが僕たちでした。でもそこからは教会の成長は起こらないと思います。神さまはもっと別の方法を準備しておられるのではないでしょうか。というのもどうしても、毒麦を裁く気持ちが起こってくるからです。教会は良い麦と毒麦に分ける考え方はとても危険です。最終的には自分が教会の主になってしまいます。でも真実の教会の主はイエス・キリストなのです。

 

⑧裁きは神さまに委ねる

 この僕たちの提案に対して、畑の主人である神はこうお答えになりました。

マタ 13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

マタ 13:30 刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と刈り取る者に言いつけよう。』」

 この主人の答はとても重要です。まず第一に「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」と言っておられるのです。それは畑を良い麦だけにしておくなという命令です。ということは畑には良い麦と毒麦が混在していることを許しておられるのですね。


⑨第2のポイント 刈り入れまで

 第2のポイントは、許しておられることには、ただし条件がありました。それは「刈り入れまで」という条件です。刈り入れの時には「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に納めなさい」と語られています。そこで良い麦と毒麦ははっきりとわかれるというのです。そして毒麦は焼かれてしまう。ですから神さまは、決していい加減な命令を出されているのではないのです。神さまの救いに与れるのは良い麦だけなのです。

 神さまは良い麦と毒麦を分けられる。救われる者と滅びる者をわけられる。でもそれがわかるのは終わりの日の裁きの日であり、それまでは教会の中に良い麦と毒麦が共存しているのを許しておられるのです。


⑩私たちはそれを判断できない

 こう言われると、また自分は大丈夫なのだろうかという不安が頭をもたげてきますよね。一体良い麦と毒麦はどう見分けられるのか。最後の裁きの日には自分は毒麦と共に滅ばされるだろうか。心配は尽きません。ここで、もう一つ主人の言葉に注目したいのです。

マタ 13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。

 さきほど、毒麦をそのままにしておくのは、もしそれを抜くと、良い麦を抜いてしまう可能性があるからだということです。逆に言えば、それをしないのはそのようなことが起こらないようにということです。

 このことは私たちの心配とつながりますよね。誰が良い麦か毒麦か。その判断は難しいということです。人間のやることはみなそうですね。つまり私たちはそれを判断できないということです。自分の判断は誤っている場合があるからです。抜かなくてもいいものを抜いてしまう。

 それは白髪とりをしたことがあるならばよくわかることです。それは、ちょうど、白髪を抜くはずが、黒髪を抜いてしまうことがままにして起こるのです。

 そうならない為には自分で判断し、裁かないで裁きは神さまに委ねることが大事なのです。それが「刈り入れまではそのままに」という意味です。


⑪一本の麦を大切になさる神

 私はこの聖書の箇所を学んで気づいたことがあります。それは、神さまは良い麦である私たちが誤って抜かれないように配慮してくださり、それほど私たちのことを大切にしてくださっているということです。ですからこれは、ただ単に、人間の裁きは完全でないからしないほうが良いということではありません。そこに私たち一人ひとりを大切に守ってくださる神さまの愛があります。白髪を抜く時に黒髪まで抜いてしまうことは仕方がないのではなく、神さまはそういうことが絶対起こらないように大切にしてくださっているのです。


⑫ハバクク書から

ハバ 3:17 いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの木は実をつけず/オリーブも不作に終わり/畑は実りをもたらさない。/羊はすべて囲いから絶え/牛舎には牛がいなくなる。

ハバ 3:18 それでも、私は主にあって喜び/わが救いの神に喜び躍る。

ハバ 3:19 神である主はわが力/私の足を雌鹿のようにし/高き所を歩ませてくださる。/指揮者によって。弦楽器で。

このハバククの言葉は、ユダという王国で経験している悪が栄えている時代を背景にして不正と暴力がこれ以上どれくらい続くのかと質問します。まるでウクライナの人々の疑問がここに書かれているのです。私たちが経験において遭遇する様々な問題は避けられないのであり、問題を持つことは精神にとって挑戦であす。そのような知的なジレンマに苦しみつつも、3章17~19節で喜びで締めくくられているのです。

17節にあるように、たとえ私たちが不作に終わったとしても、ぶどうの木に実がつかなくても、畑は実りをもたらさない。つまり不毛であったとしても、18節と19節にあるように私たちの主はしっかりと私たちの歩みに目をとめてくださり、そのような私たちを引き上げ、毒麦のようなものであっても、なお、私たちの足を牡鹿のようにして高き恵みへと導いてくださるお方なのです。

 だからこそ、苦しい時には神さまが自分たちを助けてくださるに違いない。神もその場面を共に忍耐してくださっている。でも最後には神は助けてくださるという幻をもって歩もうというメッセージです。幻のない民は滅びるのだというのです。ハバククは幻がある限り、民は栄えることができると確信をもって主張しています。

⑬毒麦である私たちを忍耐して下さっている神

 ですから、私たちは自分がよい麦か毒麦かなんて心配しなくてもいいのです。下北沢教会の皆さんは間違いなくよい麦なのですから。でもあえていうならば、神さまというお方は、良い麦か毒麦か見分けがつかないような私をも良い麦として守り、育て、慈しんでくだささるということです。

 そしてもう一つ私たちが認識しなければならないことは、私たちは神さまと信仰の友の忍耐によって、今日まで信仰を守られてきたということです。私たちは、神さまのよい麦として神によって選ばれ、救われました。その神の愛を忘れ、私たちは毒麦になってしまうことがあるかもしれません。でも神さまは忍耐強くそのような私たちが悔い改めて元の道へと戻ることを待っていてくださるのです。主イエスの十字架によってよい麦へと変えてくださるのです。牧師も信徒も皆人間ですからそのような側面は否めません。そして同じ信仰の友も同じ忍耐をもって私たちを育ててくださる。皆さん、このような欠けの多い牧師で本当に申し訳ないと思いますが、でも神さまの忍耐と憐れみの故に私たちは神の前に立つことができるのです。そのことを覚えて聖餐に与りましょう。

 
 
 

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