9月14日 礼拝説教原稿 究極の希望 マタイ13章44~52節
- shimokitazawanazar
- 9月14日
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9月14日 説教 究極の希望 マタイ13章44~52節
①はじめに 神の国の実現の為に祈る
皆さまおはようございます。9月第2週となりました。本日は究極の希望と題してお話しさせていただきます。本日は敬老祝福礼拝であります。私も先日、68歳の誕生日を迎えました。青学での授業も終了して、今身辺整理に励んでいます。神学校の研究室をきれいにしました。不要な書類を捨てて、断捨離に励んでいます。年老いても、与えられる究極の希望について本日はお話しさせていただきます。
この13章は天の国、つまり神の国のことが書かれてあるのですが、何度も申し上げますように、神の国とは神さまの支配という意味です。イエスを救い主として心の王座に迎え入れますと、私たちは神との関係に入ることになります。これまで自分の人生は自分のものだと考えてきた方も、神さまが私を生かしてくださっており、神さまとの関係において生きるもう一つの生き方があることに気づきます。そして、自分の人生ではありますが、神さまと共に歩み、神さまの支配の中に入れていただく歩みが始まります。それが神の国が私の中に実現したということです。ところがこの世を見ますと、まだイエスを救い主と認めていない方もおられます。私たちのその人たちの為も神の支配の中に入っていただくように祈り、伝道していくのです。
②畑に隠されている宝
本日は天の国をいろいろな表現を通してイエスさまが語っておられる場面です。大切なのはこのたとえが弟子たちの為に語られているということです。まず最初に天の国のことを次のように語られました。
マタ 13:44 「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。
天の国は畑にたくされた宝だというのですね。当時、イスラエルの国では土地に埋まっている宝はすべてその土地の所有者のものになるという決まりがありました。だからこそ、もし畑に宝があるのがわかったならば、誰にも話さず、持ち物をすっかり売り払いその畑を買うというものです。それだけの価値が畑にはあるということなのでしょう。
③天の国は隠されている
ここで大切なのは天の国の宝は誰もがわかるような宝ではないということです。それは明らかな宝ではなく隠された宝なのです。この世界にある神さまの支配を私たちはなかなか見つけることが出来ません。むしろ逆ですね。神さまの支配に対抗するかのようにサタンの力があり、悪の力が満ちていますね。それどころか、この悪の力が神さまの力を覆い隠して圧倒してしまうような場面が今展開されています。ウクライナの地、パレスチナの地でもそうです。それは誰の目にもはっきりと見えているわけではありません。
それに、多くの人は自分の人生は自分のもので、神さまの存在は必要ないと考えています。そういう人には、神さまの存在も天の国も隠されています。そういう意味でこの宝は隠された宝なのです。
④天の国の発見者がいることの幸い
現代はまさに神さまの支配に気づけない時代です。神さまを信じる人は特に先進国と言われる国々では困難になりつつあります。ヨーロッパでも教会はがらがらだと言われています。伝道困難な時代です。
でもその中で神の国を発見した人がいるのですね。それが私たちクリスチャンです。ここで持ち物を売り払ったというのは、これまでの人生を整理したということです。これまで神の支配を受けない、自分の人生は自分のものだという生き方をしてきた者が、自分の人生の真ん中にキリストを受け入れたのです。是非皆さんが洗礼を受けられた日を思い出していただければと思います。
⑤持ち物を全部売り払う
マタ 13:45 また、天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。
マタ 13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
2番目の人も一番目の人と同じです。真珠を買う商人の方は、良い真珠に出会うためにいろんな所に行ってそれを求めることでしょう。そして念願の真珠を見つけると、やはり持ち物を売り払いそれを買います。これが意味していることは何でしょうか。畑の中の隠された宝、そしてその土地の購入、良い真珠である救いを獲得するには自分の手放すべきものを手放す決断をすることが前提です。一般的に言えば、自己中心の生活を捨てて神中心の生活をするということです。
⑥喜びの余り
畑に隠された宝を買った人も、よい真珠をみつけて買った人はどのような気持ちでそれをしたのでしょうか。44節には
マタ 13:44 「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。
とあるように「喜びのあまり」購入したのです。喜んでいるのです。持ち物を全部売り払ったのに、それでもその手にいれた物の喜びに比べたら、全財産を使ったことが気にならないほど価値があり、喜んでいるのです。
私たちがここから教えられることは信仰というのは我慢や忍耐というよりもまさにこのことを獲得することが、人生の喜びにつながることを感謝して受け入れることなのです。
⑦愛故の喜び
この喜びはどこからくるのでしょうか。この喜びはイエスさまの愛を発見した喜びです。それも十字架の極みまで私たちを愛してくださる究極の愛に感動を覚えての喜びなのです。まさにイエスさまは自分をなげうって、自分の命をすっかり犠牲にして大いなる愛をしめしてくださいました。ここに愛があります。それを知った私たちは喜びに震えるのです。
皆さん、「あんぱん」というドラマをみておられますか。先週の月曜日の番組で矢内たかしさんがこのように言っていました。アンパンマンは以前は太ったおじさんだったのですね。妻のぶがなぜアンパンマンは自分の体をけずって人にパンを与えるの?って質問したら、人の命を救う為には自己犠牲をしなければいけないことを示す為にだよというシーンがありました。自己犠牲からでてくる愛は、その命を分かち合った愛は、愛の喜びにつながるのです。そしてアンパンマンは自分の顔を削って人に栄養補給するのですが、これは十字架を指しているように思います。でもそれで終わるのではく、またパン職人によって顔ができるのです。これは復活ではないかと思います。
子どもたちがその自己犠牲がわかりませんが、幼い子どもにはわかる場面が先週展開されましたね。
⑧魚の網のたとえ
マタ 13:47 また、天の国は、海に降ろして、いろいろな魚を囲み入れる網に似ている。
マタ 13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に集め、悪いものは投げ捨てる。
三番目の天の国についてのたとえは独特なものです。皆さんは地引き網をされたことがあるでしょうか。私は一度牧師会で体験したことがあります。一網打尽にされた魚は選別されますね。そのことが起こるのは世の終わりの時です。それが49節に書かれています。
マタ 13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中から悪い者をより分け、
マタ 13:50 燃え盛る炉に投げ入れる。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
ここに書かれていることは、少々怖い感じがしますね。世の終わりの時にはすべてが分けられ明確になる。漁において良い魚は器に入れられますが、悪い魚は捨てられるのです。
このことは、私たちのクリスチャン人生の質に関することです。私たちのクリスチャン生活は、イエスを救い主と迎えることが始まります。しかし、それは始まりに過ぎません。クリスチャンの生活をしていて、その信仰が育つことが大切なのだということです。良い麦として出発したのに、悪い麦になってしまわないようにするにはどうしたらよいのでしょうか。
その為にこそ、私たちの内にある宝をじっくりと養っていくことが重要なのです。救われて、イエス・キリストを心の内に迎えいれた私たちが、そのキリストと共に歩むことによって、イエス・キリストの姿に似る者として変えられていくということです。それを聖化といいます。
ナザレン教団は、このことを強調してきました。これこそがキリスト者にとって最も重要なことです。試練があったとしても、神さまの支配を信じつつ、最後まで走り抜く姿勢が求められます。
⑨弟子とは主イエスに倣う者となる者たち
最後に弟子たちは何と答えたでしょうか。
マタ 13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは「分かりました」と答えた。
主イエスは、ここで弟子たちに問いをかけられます。このことがわかったのか。すると弟子たちは「わかりました」と語ります。この13章の前半で主イエスは群衆に向かって語られましたが、たとえを用いてもなかなか難解で真意はわかりませんでした。でも弟子たちはそれを理解しました。
天の国は隠された奥義であるのです。でもその奥義をしっかりと見つめることのできる人々がこの世にいるのです。それがクリスチャンです。でも、なぜ彼らはそれが理解できたのでしょうか。それは彼らが真実にイエスのみことばに耳を傾けた弟子だったからです。先週もお話しました外に立って判断するのではなく、主イエスのもとに来て、主イエスに倣う者となった人々だったからです。これはさきほどの聖化につながる言葉です。この「主イエスに倣う者となる」というのがナザレン教会の世界的な標語なのです。心の中心にイエスをキリスト(救い主)として迎えること。そして救われた後にはイエス・キリストに似る者と変えられていく。成長したいと心から願う者となること。これが鍵であり、ナザレン教団という教会の存在理由がそこにあるのです。
⑩天の国のことを学んだ学者
さて、最後にもう一つ確認しなければならないことがあります。それは52節にありますように、「天の国のことを学んだ学者」という言葉です。
マタ 13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す一家の主人に似ている。」主イエスはここで、弟子たちのことを学者と呼ばれました。その学者は自分の蔵から新しい物と古い物を取り出す一家の主人だと言われました。
私もある意味で学者の端くれに加えられている者ですが、ウェスレーに関してはいろんなものを内側に詰め込んでいます。引き出しをかなり多少もっています。そういう意味で自分という倉から新しいセオリーも古いセオリーも説明することができます。それは恥ずかしいレベルなのですが。
イエスさまはそのように信仰者は天の国について学者になることができると言われているのです。神の支配は、今は隠れているかもしれず、奥義であるかもしれませんが、その奥義をしっかりとわきまえ、この世が神の支配される畑であり、その真珠のような信仰を内に持つことが出来る。悪の力が猛威をふるっているように見えるこの世で真実の神の国を感知することができ、神さまが必ずこの世界を支配してくださると言い切ることができる。その宝を持っているというこです。その上で、私たちは自分の成長に役立つものと、不要なものを見極める信仰の目を持ち歩みたいものです。
⑪私たちも天の宝を分かち合おう。
そしてもう一つ、学者というのは、その知識を人に教える人です。私たちが天の国の学者になるというのは、天の国の秘密を人に伝え、教える者になることです。畑に隠されている宝ならば、誰にもわからないようにそっと隠しておいて、それを自分一人のものにしようとします。しかし天の国の秘密、神の恵みのご支配というこの宝は、独り占めできるようなものではありません。神はこの宝を、誰にでも分け与えようとしておられるのです。だから私たちも、「ここに、こんなにすばらしい宝が隠されています。あなたもそれを手に入れることができるんですよ」と、喜びをもって語っていきたいのです。この宝は、人と分かち合えば合うほど豊かになっていく、そういうものなのです。そのことをわきまえる時に、この世がそれほど暗くても決して恐れることはありません。そこに究極の希望があるのです。その宝として主イエスは私たちを愛し、最後まで導いてくださるのです。
⑫たこやき
柏木哲夫先生という方がいらっしゃいます。ホスピスで有名な先生ですが、この先生が以下のような事を言われています。うけうりで申し訳ありません。
さて、柏木先生はこのように言われます。
私も時々たこやきを食べるが、たこの入っていないたこやきに出会うことがある。自分も何も悪いことをしたわけではないのに、何でたこの入っていないたこやきに出会うのだろう。でもたこの入っていないたこやきの何と味気ないことか。たこやきの醍醐味は最後のあのこりっとしたたこを味わうからこそおいしいのだ。その最後のこりっが味わえない何て、神さまどうにかしてください。核となる部分を持っているかどうか、それが重要なのです。
先生は続けて、自分は人の死をたくさんみとってきたが、人は生きていたように死んでいく。感謝して生きてきた人は感謝して死んで行く。でも文句ばかり言ってきた人は文句ばかり言って死んでいく。
名もないクリスチャンの女性は、感謝しつつ、「柏木先生先に天国に行ってきます。これまでありがとうございました。神さまに委ねます。そして先生をお待ちしています 」と言って天国に凱旋された。ところがもう一人、会社の社長さん。お金はたくさん持っておられるが、死が怖くて仕方がない。悶絶しつつ、不安の中で亡くなっていかれた。
人は裸でかしこをでた。裸でかしこに帰ろうとヨブ記にあるように。 この世でどれだけ蓄えようと、将来、神のもとに立つ時は何も持っていけません。わたしたちは生まれる時は何も持っていません。しかしいろんなものを蓄えているのがわたしたちです。でもわたしたちが老いるにしたがって、それら外側のものは、少なくなっていくのです。そこで重要なのは核となる部分。そうたこの部分です。もしわたしたちの生き様で、外の部分がなくなり、少なくなっていく時に、この信仰の部分、霊的な恵みを魂に受けている核となる部分が次第に大きく成長しているならば、その人の核となる部分から香りがにじみだして味わい深い人生を送れます。外側は全部そがれていく中でも、味わい深い人生を送れますし、またその人の核となる部分からかぐわしい香りがただよい多くの人の人生に深い影響を与える人生を送れるというのです。
問題は、その信仰の部分が自分の中で大きくなっているかどうかです。しぼんでいてはまずいのです。たこの部分を皆さんの中で育てましょう。そして大祭司なる主がとりなしをしておられますから、大胆に神の前に近づいてまいりましょう。
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