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8月31日 礼拝説教 神の家族である教会 マタイ12章43~50節

  • shimokitazawanazar
  • 8月31日
  • 読了時間: 11分

神の家族である教会  マタイ12章43~50節


①はじめに

 皆さま おはようございます。8月最後の日曜日となりました。本日は「神の家族である教会」と題してお話させていただきます。教会というのは不思議な場所です。これだけ、多くの年齢層の方が一緒にいれる場所はあまりないと思いますし、会社では偉い方でも教会に来たら一人の人物として、肩書きによる呼ばれ方はせず、~さんと呼ばれます。以前は兄弟、姉妹と呼んでいましたが、様々な方のことを考えて、下北沢教会では可能な限りさんづけで呼ぶようにしています。ただ私は昔の習慣で○○兄弟、姉妹がでてしまいます。反省です。そんな教会はイエスさまを主(キリスト)と信じる人がいる場所で、そのことによって教会は大きな家族です。


②汚れた霊について

本日の箇所は2つに別れています。

 一つは43節~45節までは汚れた霊のことが書かれています。汚れた霊が一旦ある人から出て行って、また戻って来のです。その時に起こることが記されています。

マタ 12:43 「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。

マタ 12:44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。

マタ 12:45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この邪悪な時代もそのようになる。」

 この前のところで主イエスは悪霊にとりつかれて苦しんでいる人を癒されました。そのような人たちのことが書かれています。悪霊にとりつかれて、その悪霊がでていった人を空き家にたとえておられます。悪霊は一時的に癒された人を離れるのですが、再びその人の心の中に戻ってくるというのですから困ったものです。それも癒された人の心は掃除されて、きれいであり何と飾り付けまでしてある状態なのです。せっかく癒されたも、心の中にキリストがおられない家は空っぽなので以前よりも悪い状態になってしまうというたとえです。


③汚れた霊のたとえの意味

 このたとえは一体誰を指すのですしょうか。これは後のユダヤの人々を指す言葉だと言われています。何度神さまはユダヤの人々のピンチを救ってくださったでしょうか。それでも、ユダヤの人々はその後、救い主を受け入れませんでした。この40年後、エルサレム神殿は破壊され、彼らは離散の民として世界中に散らばっていかなければなりませんでした。45節に「邪悪な時代」とあります。まさにその後の40年間は邪悪な時代、迫害の時代、キリスト教会はピンチの時代でした。せっかく助けられても心の中に救い主を迎えない人々のことが描かれています。


④汚れた霊のもう一つの意味

 でも、私はもう一つの意味があるのではないかと考えています。それは、私たちがイエスさまを救い主と信じることと関連があるのではないでしょうか。イエスさまを信じて洗礼を受けて救われた状態は、まさに心の中がきれいにされた状態です。もう汚れた霊はおりません。出ていかざるを得ません。でも、もしその状態が長続きしなかったら。一旦は心の中央にキリストをお迎えしても、その後、様々な誘惑にあって心からキリストを追い出してしまったら、そこに隙ができて、もう一度汚れた霊が戻ってきてしまうこともあるのではないかと。一体なぜそのように一度キリストを受け入れた人がさまようことがあるのでしょうか。それを解く鍵が次の言葉です。


⑤ しるしを欲しがる世界

 そのような時代に何が起こるか。それが38節に書かれています。

マタ 12:38 その時、律法学者とファリサイ派の人々の何人かがイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。

 38節の表題にも「人々はしるしをほしがる」とありますが、しるしを求めるとはどういうことなのでしょうか。それは、具体的には、自分の願いや思い通りになるしるしを欲しがり、自分の為に神を利用することが考えている人々が意識されています。

 御利益的な信仰を持っているとそのようなことが起こります。このような方向で神を求めると、自分の願いや思いに適う時は神さまを求めますが、自分の願いや思いが通らないと神から離れていくことになります。そういう一時的な信仰は長続きしません。信仰は絶えず神様と交わり、神と共に歩む生活です。


⑥そうならないようにするには?

 それでは、そうならないように何をしなければいけないのでしょうか。

イエスさまを心の中にずっといていただくにはどうしてらよいのでしょうか。汚れた霊が戻ろうとしても入れないと感じるほどに緊密な神との関係を持つクリスチャン生活をすることが重要なのです。

 主イエスは、十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって死の力に勝利して下さった方です。この方を私たちの心にお迎えして、この家の主人になっていただくことによって、もはや私たちの心は空き家ではなくなります。悪霊が入り込む隙はなくなるのです。それを長く続ける為の秘訣が、信仰の交わりにあると私は信じています。教会はその為の大きな家族なのだということです。


⑦母と兄弟たち

 12章46節以下にはイエスさまの母マリアと兄弟たちがでてきます。イエスさまには兄弟たちがおりました。その母と兄弟たちがガリラヤ地方で伝道しておられるイエスさまのもとに来た場面が本日の場面です。ただここで、イエスさまはせっかく会いに来た母と兄弟たちにどちらかと言えば、大変冷たい、塩対応をされています。

マタ 12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。

とあります。それに対して主イエスは以下のように答えられました。

マタ 12:48 イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」

 主イエスはなぜこのようなことを語られたのでしょうか。少々奇異に思いますね。せっかく遠路はるばる家族が会いにきてくれたのだからもう少しちゃんとした対応したらよいのではないかと思います。


⑧イエスさまの理由

 でもそれには理由がありました。同じ場面をマルコの視点からみた箇所になりますが、マルコによる福音書3章21節をご覧ください。

 マル 3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて、取り押さえに来た。「気が変になっている」と思ったからである。

 この箇所を読むと、イエスさまがなぜあのような態度をとられたのかわかるような気がします。イエスさまは気が変になっていると言われて家族もそう思っていたのです。

 家族としてはこれは当然の思いでした。イエスさまの家庭においてはヨセフは早くなくなっていたと考えられています。イエスさまはその為に、召し出されるまでは、家にいて母マリアに仕え、家族を養うそのような努力をしていました。でもその彼が様々な所で奇跡の業をしている、また律法学者やファリサイ派の人々と論争していると聞いて、まさに心配を通りこして、気が変になってしまったと思い込み、力尽くで家に連れて帰ろうと思ったのでしょう。このことは家族の通常の反応でした。家族は心配してたのです。

 しかし結果的には、彼らの家族としての愛と心配も、主イエスの救い主としてのお働き、その伝道と癒しのみ業を妨げるものになってしまっています。


⑨外に立つ家族

  マタイがこの話で強調していることがあります。それは、母や兄弟たちが「外に立っている」ということです。

マタ 12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母ときょうだいたちが、話したいことがあって外に立っていた。

マタ 12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。お母様とごきょうだいたちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。

 つまり、彼らは、イエスさまが向き合っている人々との中には入らずに、外から傍観者としてイエスのことを判断しているのです。確かに、そこにはまず観察する為に外に立っていたと言えるかもしれません。でも、少なくとも、母マリアやイエスの本心が見えない位置に立っていたのではないでしょうか。彼らにはイエスが気が変になっているという思いが強く、そこで、つまり外側に立って判断してイエスを連れ返しにきたのです。距離を置いているところからみてもその人のことはまずわかりません。


⑩外から見る人の例1 

 マタイ12章にはイエスさまのなさることを外から傍観しているだけで真実に理解しようとしていない人たちのことが書かれています。1節からの記事は安息日にイエスさまが麦の穂を摘んだり、手の萎えた人を癒す記事が書かれています。ファリサイ派の人々はそれを批判しました。彼らはイエスさまを外側からみて、判断して、イエスさまを批判しているのです。彼らには苦しんでいる人の苦しみやそれを癒そうとするイエスさまの愛がわかりません。律法を守っているかどうかを考えて、自分の立場を優先して、自分の知識で判断する冷たい人々です。


⑪外から見る人の例 2

 第2の例は、放蕩息子の物語に見ることができます。放蕩息子であった弟が突然帰ってきて、父から歓迎を受けているのを見て兄はむくれます。

ルカ 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

ルカ 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

 これが兄の冷たい心情でした。本音がでたのでしょう。全く弟に対する愛のない反応です。

ルカ 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

とありますが、つまり兄は外にとどまったということでしょう。家の中では弟の発見を喜び、祝宴が行われているのに、自分の基準で弟をみて、「あなたのあの息子が」と弟を呼んでしまう愛のない兄の姿です。私はこの兄の罪を「義人の罪」と呼びます。こういう要素は特に真面目に生きている人に多いのかもしれません。


⑫外から見る人の例3

そしてまさに、これらの人々は、先ほどの汚れた霊を追い出してきれいに掃除をして整えられている家、でもそこは空き家であり所有者がいないのです。だから汚れた霊が他の霊と共に住み込んでしまいます。そのような人は、クリスチャンになってからも、まだ、イエスさまを外から見ているだけの人の典型です。外に立つとは「自分の基準ですべてをはかってしまう生き方」です。そこにはイエスさまとの親しいの視点がないのです。そしてこのような人は、主イエスのことを尊敬し、学ぼうとしているかもしれませんが、主イエスを人生の主として迎え、主イエスのみこころに従うことはない人です。このような人は、主イエスに対して外に立つことによって、悪霊が私たちの内に入ってきて、私たちを支配してしまうのです。


⑬原点の質問

 原点の質問に戻りましょう。

マタ 12:48 イエスはその人にお答えになった。「私の母とは誰か。私のきょうだいとは誰か。」

 まず確認したいのは、この言葉は母や兄弟たちに対して言われた言葉ではないとうことです。この言葉はまわりにいた人々に対して言われた言葉です。でも、誰も答えられなかったでしょう。その上でイエスさまは以下のような答えをだされました。

マタ 12:49 そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。

マタ 12:50 天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」

主イエスはここで、身内の者たちは家族ではないと言われたのではありません。主イエスの本当の家族とは誰かを問われたのです。それは外側からイエスさまを見つめて論評する人々ではなく、イエスを心の王座に迎え入れて主と崇める人です。自分の思いではなく神さまの思いを心に宿し、罪人が回心したら心から喜べる人です。


⑭主イエスの家族

 ファリサイ派の人々は自分の中では律法を守ることにより、自分なりに神さまの御心を行っていると考えていた人たちです。ここの真実の救いを見分ける難しさがあります。彼らはそれを特に厳格に、熱心に守っていました。しかし彼らは主イエスの真実の家族ではなく外に立っている人々でした。自分の思い、自分の基準を優先する時にこのようなことが起こるのです。でもそれは、ひとりよがりの信じ方であり、主イエスの家族の中には入らず外にいる信じ方です。

 真実に主イエスの家族になろうと思うならば、私たちは何よりも教会の交わりを愛し、その交わりによって育てられる必要があります。共に同じみことばを聞き、聖餐に与り、一体となり、人生の困難にあったときには、お互いに慰め合い、励まし合いながら信仰共同体の一員として歩む姿です。


⑮手を差し伸べるキリスト

マタ 12:49 そして、弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。

 「手を差し伸べる」というこの訳は以前は「指さして」と言われていた言葉です。この言葉は、たとえて言えばイエスが病気の人に手を差し出して触れて癒された時に使われる言葉です。または溺れそうになっていたペトロに手を差し伸べてすくい上げてくださるという言葉です。

母や兄弟たちも外に立っていました。最終的には、そのような人たちも主イエスは救われました。彼らもその交わりに入ることができたのです。弟子たちはその差し出された手をしっかりとつかんでイエスさまとの関係を築いたことでありましょう。

 私たちの主は私たちに手を差し伸べてくださるお方です。その差し伸べられた手をつかむには、外から見ているだけでは駄目なのです。しっかりと捕まえることが重要です。どうぞ皆さんも真実の意味でその手をつかみ、主イエスとの永遠の交わり、主イエスの家族の一員になろうではありませんか。そして今度は、信仰の友へその手を差し伸べようではありません。そして下北沢教会が神の家族である教会として、一人ひとりを大切にして歩む教会でありますように祈ります

 
 
 

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