8月3日(日)説教原稿 みことばの権威 マタイ8章5節~13節
- shimokitazawanazar
- 8月3日
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①はじめに 傷つける言葉 生かす言葉
皆様、おはようございます。8月になりました。8月は平和を考える時でもあります。本日は平和聖日です。現代ほど平和が望まれている時代はありません。その平和を覚えつつマタイによる福音書からみことばを取り次がせていただきます。
まず「傷つける言葉、生かす言葉」という話をします。安海牧師という方の体験談です。それは以下のようなものでした。
先日、朝のテレビで、退職したご主人たちのアンケートの集計が紹介されていました。その中で興味深かったのは、退職してからショックを受けた妻の言葉のベストテン、という のがありました。無意識のうちにご主人の心にショックを与え、傷つけている奥さんの言葉、 いろいろあるのに驚きました。
ナンバーワンは、「仕事どうするの?」という言葉。 ご主人、つらいでしょうね。 ひどいのがありました。「一日に三度、 家で食事するの?」ガックリでしょうね。 次に、「散歩でもしてきたら!」 なんか、邪魔ものみたい。「趣味でも持ったら!」プレッシャーですよね。もっともひどい、強烈なのは「誰かと旅行でもしたら!」 婉曲に出て行けみたい。
笑って見ていた私は、だんだん真剣な顔になりました。怖いですね。どうして、こうなっちゃうのかなあ。 本来はどうあるべきなのかなあと考え させられました。もしこの逆で、こう言われたら、うれしいし心安らぐと思いました。「仕事どうする」ではなく、「長い間ご苦労様、ゆっくり休養してね」「一日に三度食事するの」ではなく、「毎日、昼も一緒に食事できてうれしいわ」「散歩してきたら」ではなく、「一緒に散歩しましょうよ」「一緒に趣味を始めましょう」、「一緒に旅行に行きましょう」と。こうなったらどんなに幸せでしょう。何が、どこが違うのでしょう。 後者の望ましい言葉に は「共に」、「一緒に」が共通しているのです。人間の言葉というのは持ち方一つで様々な意味があるのですね。人を元気づける言葉を語りたいものです。
このような事を考えますと、人間の言葉は何とも頼りなく、あるときは励ましもしますが、傷つけることも多いということがわかります。今日のテーマはそのような人の言葉でなくて神の言葉の権威です。
②百人隊長の懇願
物語は、イエスがカファルナウムに来られた時のことです。カファルナウムという町はイエスさまが度々訪れ、愛した町でした。そこに入られるとひとりの百人隊長が近づき、懇願します。かなり切迫しているようです。必死な様子がわかります。マタ 8:6 「主よ、私の子が麻痺を起こし、家で倒れてひどく苦しんでいます」と言った。
ここで注目しなければならないことがあります。それは懇願した相手が百人隊長だったということです。彼はローマの百人隊長だったのですから支配側にいる人間です。その彼がイエスさまに頼んできたのですからよほど切迫した事情があるのでしょう。
親として子どもの状況を見るに忍びないのでしょう。うちには愛犬がいるののですが、もう16歳の老犬です。今私は3日に一度点滴をしています。一時、腎臓のあたいが悪く、危篤に近い状態でした。家族の看病で何とか持ち直しましたが、腎臓は4分の1しか働いていないと言われています。ましてはこの聖書の箇所におkる息子の父親の願いは切迫していました。
③私が行っていやしてあげよう
イエスさまはその懇願に対して、
マタ 8:7 そこでイエスは、「私が行って癒やしてあげよう」と言われた。
とあります。ギリシャ語ですと
Matt. 8:7 καὶ λέγει αὐτῷ· ἐγὼ ἐλθὼν θεραπεύσω αὐτόν.
実はこの言葉には2つの説があります。
①通常は、肯定的にとらえる読み方です。この日本語訳もその方向で訳しています。否定的な響きはあまり感じられません。もし私が行って癒してあげようが肯定的な言葉であるならば、次の百人隊長の言葉「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。」はとても謙虚で全面的に信頼している言葉となります。
④否定的な捉え方
①しかし、もう一つの説によれば、「私が行って癒せというのか」という否定の言葉としても捉えることができるという説です。そうすると、次の百人体調の言葉は「そのことはごもっともです。私は異邦人ですからそのような資格がないことをしっています。しかしせめてお言葉をください。そうすれば癒されるでしょう」というふうにも捉えられるのです。
本日は聖餐式がありますが、この言葉は私たちの教会の聖餐の式文を彷彿させますね。15章にあるカナンの女に対して「子犬にえさを分けてやるわけにはいかない」と言われたイエスさまに彼女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と語り、このような信仰はみたことがないとイエスさまは驚かれます。
私はこちらの方があっているかなと思っています。
⑤百人隊長の信仰
いずれにせよ、イエスさまはすぐに行動を起こされます。少しでも早く関わることが必要であると判断されたのです。このイエスの姿勢は大切だなと思います。すぐに対応する姿勢です。私も何か願いを聞いた場合は、できるだけ速やかに対応したいと思います。
ただし、ここで重要なのは、その願いを叶えるために、イエスさまが彼らの信仰を試されたということです。肯定的にとらえるのであれ、否定的に捉えるのであれ、百人隊長の姿勢は一環していました。謙虚で強く信頼している言葉です。
この百人隊長は、「主よ、私はあなたをわが家にお迎えできるような者ではありません。ただ、お言葉をください。そうすれば、私の子は癒やされます。」と語りました。まるでみことばの権威は自動的に与えられるものではないと言っておられるかのようです。これは驚くべき言葉です。神さまの言葉には権威があり、力があることを知っていたのです。この百人隊長は、謙虚に自分の信頼を告白しました。このみことばの権威に食いつく姿に感動します。
たとえ拒否られてもあきらめずに神さまの権威にすがりつく姿です。果たして私たちにそのような謙虚でけども、しつこい信仰と言いますか、あくまで自分の神への信頼は揺るがないという信仰があるでしょうか。
⑥ ユダヤ教のみことばの朗読の重要性
以前、アメリカで礼拝学の授業を受けていた時に、ユダヤ教の礼拝に参加したことがあります。私たちの教会は司会の方がとても大切に聖書を読んでくださいますが、ユダヤ教の礼拝堂では講壇の上に巻物があり、朗読者はそれを読みながら行進するのです。この聖書朗読に選ばれることは非常に大きな名誉ということになります。実は、イエスさまもしばしばユダヤ教の礼拝所で聖書朗読をされたのですが、その巻物が礼拝堂を一周するのです。朗読しながら。その巻物の権威の絶大さに唖然としたことを覚えています。
創世記で「光あれ」と神さまが語られたら「光があった」と記されていますのように、神さまの言葉が発せられると、それは成るのです。成就するのですね。それくらい神さまの言葉は権威があり、力があり、実現していくのです。まさにこの父親の信仰には、神の言葉への一途な信頼が見えているのですね。
⑦創世記のサラの場合
私たちはどれくらい主の言葉の権威を信じているでしょうか。創世記のサラの言葉を見てみましょう。
創 21:1 主は、言われたとおり、サラを顧みられた。そして主は、語られたとおり、サラのために行われた。
創 21:2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムに子どもを産んだ。それは、神がアブラハムに語った時期であった。
創 21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子どもをイサクと名付けた。
創 21:4 そして神が命じられたとおり、アブラハムは生後八日目の息子イサクに割礼を施した。
創 21:5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。
創 21:6 サラは言った。「神は私を笑わせてくださいました。このことを聞く人は皆、私を笑うでしょう。」
創 21:7 また彼女は言った。「サラが子どもに乳を飲ませるなどと、誰がアブラハムに言うことができたでしょう。しかし実際、私は年取った夫に子どもを産んだのです。」
神さまはアブラハムとサラに息子の誕生を告知されますが、なかなかそれが起こりませんでした。でも21章1節にあるように「主は語られたとおり、サラのために行われたのです。」大切なのは語られた通りという言葉です。まさに言葉が実現するのです。6節でサラは、「神は私を笑わせてくださいました。このことを聞く人は皆、私を笑うでしょう。」と語っています。自分の年を考えてみれば、自分が子どもを産むなんて考えられないことだったのです。しかし実際にサラは子ども産んだのです。主の言葉には権威があることを証しした内容ですね。
私たちの人生においてもしばしば同じことが起こります。なかなかそのみことばが信じられない時があるのです。でもしばしば神さまは、神さまの言葉が自分の身に実現したという経験をさせてくださいます。
⑧ 神様を疑った宣教師
ある一人の宣教師の話をさせていただきます。
詩篇145:4 「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。」という言葉があります。R先生は、日本人に福音を伝えるためにアメリカから来日した宣教師です。もうずいぶん長 い間日本で暮らしていたために、日本語もとても上手ですし、日本人の気持ちもよく理解できるので、大勢の人から慕われています。 元気で明るい奥さんは、日本人の奥さんたちの間でも 人気者で、R先生ご夫妻は、とても楽しそうに神様のために働いています。 いままで大勢の人 が、 先生に導かれてクリスチャンになりました。 いつもにこにこ優しい笑顔を浮かべている先 生を見ると、苦しいことや悲しいことは何もないように思われます。
ところが、いまから十数年前のことです。教会の集会で、「驚くばかりの恵みなりき」とい う有名な賛美歌を歌っているとき、突然、 先生の心に、「神様は本当にいらっしゃるのだろうか」という疑いが起こったのです。先生はびっくりしました。 「自分は、この神様を伝えるために日本まで来たというのに、どうしてこんな気持ちになったのだろう。なんというみじめな 宣教師だろう」と、情けなくて涙がぽろぽろほおを流れたそうです。
先生は、あとでその日のことを思い出しておっしゃいました。「私は、そのとき、とても疲れていたのかもしれません。疲れた心に悪魔がささやいたのかもしれません。けれども神様は、私を慰めて新しい勇気と信仰を与えてくださいました。がっかりしたり、神様を信じられないことがあったとしても、「私はもうだめだ」とあきらめないで、神様を見上げて祈りましょう。 信仰は、疑問を抱いたり失敗したりしながら、死ぬまで成長するものなのです。」
私たちは弱くてもみことばの権威は現前とそこにあり、私たちに生きる道を示してくださいます。そのことを覚えて歩みましょう。そして世界中の指導者たちは、この神のことばの権威のもとに跪くべきです。世界平和の実現の為に。
⑨あなたの信じるようになる。
最後に、もう一度、この百人隊長の言葉、本日の最後のみことばに注目したいと思います。それは
マタ 8:13 そして、百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように。ちょうどその時、その子は癒やされた。」
という言葉です。つまりこの癒しは、百人隊長の信仰によって実現したのです。彼が信じたことが、主イエスのみ言葉によって実現したのです。ですから、例えばもしも彼が、イエス様にお願いすれば、僕の(あるいは我が子の)病気も少しはよくなり、苦しみが和らげられる、と信じていたならば、病気は完全には治らず、症状が少し緩和されるだけだったのでしょう。しかし彼はそんな中途半端な癒しではなくて、主イエスの一言で、病気が完全に治る、全く健康になる、と信じていた。それゆえにその通りのことが起ったのです。
最後にイザやの言葉を聞きましょう。
イザ 55:8 私の思いは、あなたがたの思いとは異なり/私の道は、あなたがたの道とは異なる/――主の仰せ。
イザ 55:11 そのように、私の口から出る私の言葉も/空しく私のもとに戻ることはない。/必ず、私の望むことをなし/私が託したことを成し遂げる。
主の言葉はむなしく私のもとに戻ることはない。アーメンですね。主の言葉の権威を信じつつ歩んでまいりましょう。
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