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8月10日(日)説教原稿 憐れみの福音

  • shimokitazawanazar
  • 8月10日
  • 読了時間: 11分

8月10日礼拝説教 憐れみの福音 マタイ9章9~13節


①はじめに

 皆様おはようございます。8月の第2週となりました。休暇も無事終了し、無事に帰ってこれまして感謝です。暑い日が続いております。ご自愛ください。本日は「憐れみ」の福音と題してお話しさせていただきます。

 憐れみという言葉はキリエ・エレイソンというラテン語でもよく知られているものです。主よ憐れみ給えという名で知られているグレゴリオ聖歌はとても有名ですね。Youtubeをみていただければたくさんのキリエ・エレイソンがみれます。

 本日の場面はマタイという徴税人の召しが記されている場面から始まりますマタイはイエスの「私に従いなさい」(9節)という言葉にすぐに立ち上がって従っています。そのようなマタイは、ある場面に遭遇します。それが10節からの内容です。

 

② 徴税人と同席するイエスさま

マタ 9:10 イエスが家で食事の席に着いておられたときのことである。そこに、徴税人や罪人が大勢来て、イエスや弟子たちと同席していた。

イエスさまはある家で食事をしようとされていました。通常ファリサイ派の人々には食事規定があり、食事をとる時には様々な決まりに従って食事をとる必要がありました。彼らは律法に忠実に生きていますので、律法に規定されていないことが起こることは問題でした。それだけでも大変なのに、もう一つ問題が起こりました。

 このイエスさまを必要としているのはマタイだけではありませんでした。そこには、ユダヤ人にとって本来そこにいてはならない人たちも混ざって食事をしていたのです。イエスさまは食事の席を徴税人や罪人と同席しておられたのです。ファリサイ派の人々にとってそれは大事件でした。それで、ファリサイ派の人々は批判しました。マタ 9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

食事規定でさえも明確に守っているのに、イエスさまはこのような人々と同席するなんて赦せないと思ったのでしょう。

 でも、逆に言えば、イエスさまは彼らの仲間だと自覚しておられたということです。彼らにはイエスさまの意図がわからなかったのですね。


③ 徴税人と罪人

 ここで注目すべきなのは、「徴税人と罪人」がセットででてきていることです。これを聞いてマタイはどう思ったでしょうね。実は彼こそ徴税人だったのです。自分のことを指摘されて、心中穏やかなはずはありません。なぜ徴税人が罪人と考えれてきたのでしょうか。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下に置かれていました。徴税人は、自分がユダヤ人であるにもかかわらず、ローマに代わって税金を同胞から取り立てるのですから、ユダヤ人からは嫌われていたのです。ここにローマのとても周到なやり方があります。自分たちは嫌われることなくお金の徴収はユダヤ人に任せられるのです。徴税人はローマの権力を後ろ盾にして、時には必要な額以上のものを搾取していたとも言われます。そういう意味でユダヤ人にとって「徴税人=罪人」として考えられていました。これはユダヤ人からみたらゆるすことのできないことです。

 マタイは、その徴税人なのですから、ユダヤ人の批判を複雑な気持ちを抱えつつマタイは彼らの言葉を聞いていたのでしょう。

 

④イエスの答

 この批判に対してイエスさまはこうおっしゃいました。

 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」

 この言葉は一体何を意味するのでしょうか。ごくあたり前のことを言っているように思います。しかし、その背後にはファイリサイ派の人々に対する批判があるように思います。

 

 少し余談になりますが、私たちも何か肉体が病むと医者に行きますね。でも最近は総合的に人間を見ることがなかなか難しい時代です。ある時、こういう表現を見つけました。「西洋医学は病を癒すが東洋医学は人を癒す」という言葉です。最近のお医者さんは、病に集中する余り、病に陥っている人に対するケアが足りないのではないかと思います。病にかかって人の気持ちをなかなか汲み取ってくれるお医者さんが少ないのではないでしょうか。

 

 実は、この「病人」という言葉は、「自分が病であることを知っている人」という意味です。ギリシャ語ではκακῶςという言葉です。この言葉には「誤っている」という意味もあるのです。つまり、ここで、病人というのは文字通りの病人と言うよりは、どうも「自分が癒されないほど罪の自覚がある人」、「自分が誤っていることを知っている人」を想定しているようです。そういう人こそ医者が必要であるとイエスはおっしゃっておられるのです。

 ファリサイ派の人々は自分たちは律法をちゃんと守る正しい者で罪人などとは思っていないのですからそれだけでも批判になります。でも、自分の罪を認められる人はなかなかいないのではないかと思います。皆、自分は丈夫な人だと思っており、自分は罪人ではないと考えていますし、自分は誤っておらず相手が誤っていると思っている人が多いのではないでしょうか。

 一体イエスさまはどういう意味でこの言葉を語られたのでしょうか。


⑤必要なのは慈しみであっていけにえではない

 ファリサイ派の人々にもう少しそのことを説明したいと考えて、イエスさまは3節で『私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない』と語られています。これはどういう意味なのでしょうか。この慈しみといけにえは何かを象徴しているようですね。

 慈しみは、憐れみをもって人に接する姿勢です。いけにえということでイエスさまが意識されていたのはファイサイ派の人々が行っていた様々な宗教儀式という意味です。

 イエスは、儀式をしていたとしても、どんなに律法を守っていたとしても憐れみや慈しみのない儀式を私は求めていないと宣言されているのです。これはファリサイ派の人々への批判でした。


 これは先ほどの医者と患者に置き換えるならば、せっかく治療はしていても患者さんの病にだけ関心があってもその人の気持ちをわかってくれないことに通じるものがあります。人と接する時に、相手に対する憐れみ、慈しみの感情はとても大切なものです。ここで徴税人や罪人の人々は、自分の立場をわかっていて、自分がここに呼ばれていない罪人であることを理解できていた人たちです。まさに病人なのです。一方イエスさまやそのような人々を批判するファリサイ派は丈夫な人となります。

 ただこの憐れみという言葉はスプリンゾマイというギリシャ語ですが、はらわたがよじれるような痛みを共有するという意味で共に苦しむ共苦という意味です。同じ痛みで人と接することなど上から目線では決してありません。ファリサイ派の人々にはそのことが欠けていたのです。


⑥罪人を招く為に来た

そして最後に「 私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と語られます。この罪はギリシャ語ではハマルティア的外れという意味です。ギリシャ語では δικαίους ἀλλ’ ἁμαρτωλούς 義人ではなく、罪人であるとされています。

 私たちは自分が本当は罪深い者であることをどれだけ知っているでしょうか。いえいえ、自分は罪人ではないと思っているのではないでしょうか。日本人の多くは罪を犯罪と考えて、犯罪人ではないと考えます。でもキリスト教の罪は的外れなのです。自分が的を得た歩みをしていないということです。その的とは神さまとの正しい関係を無視して生きているということです。または神さまによって生かされているのに神を無視して生きていることです。このことをイエスさまはしっかりと警告されるのです。私たちは、もう少し神さまを意識する生活をしなければなりません。神さまを意識しないと自分という者が尊大になってきます。特にこの世の為政者はそうです。


⑦見ていてくださる神

ここでもう一度9節に注目していただきたいと思います。

マタ 9:9 イエスは、そこから進んで行き、マタイと言う人が収税所に座っているのを見て、「私に従いなさい」と言われた。

 この見てはギリシャ語ではεἶδενという言葉ですが、、ギリシャ語の意味はちらっと見るというのではありません。「しっかりと見つめる」という意味のギリシャ語が使われているのです。つまり、イエスさまはマタイのことを遠くからしっかりと観察されていたのだということです。同胞から税金をたくさんとってしめしめと思っていたのかもしれません。しかし、罪の呵責があり、常にひとりぼっちで孤独な様子を眺めておられたのかもしれません。

 私はマタイがイエスさまの弟子として選ばれたのは、自分が罪を犯しているという自覚を持っていたからではないかと思うのです。「医者を必要としているのは病人である」との病人とはマタイです。悪いことはわかっているのに、同胞を裏切っている自分に彼は嫌気がさしているのです。自分で自分を救うことはできない。自分ではどうしようもない、自分が罪人だと自覚している人のところに主イエスは来られます

 同じように主イエスは必ず私たちの状態をしっかりと見つめていてくださって、また自分がどのような人間なのか。自分がどうしようもない人間だということがわかっているかどうかを見つめていてくださる。「自分がどうしようもない人間」という自覚を持っている人にイエスさまは目をとめてくださるのです。自分が罪人として自覚しているのをみて、憐れみを施してくださるのですね。何と感謝なことでしょう。


⑧キルケゴールの『死に至る病』

キルケゴールという人の名前は聞かれたことがあると思います。彼はその著書『死に至る病』の中で人間の絶望をいくつかにわけて語ります。


 1)まずは、無限性の絶望です。無限性の絶望が示すのは、「空想にふけった人生」です。人間は、よく妄想します。「お金持ちに生まれたら、働かなくてすむのに」「アイドルと結婚でしてたら毎日楽しいのに」

 そのような妄想は希望のように見えますが、自分の可能性が伴っていなければ、絶望でしかないと、キルケゴールは述べています。「自分がお金持ちに生まれればいいのに」などの、自己の外側にあるに対する妄想に組み込まれてしまい、現実にはそれが起こらず絶望すること


2)有限性の絶望 無限性の絶望は現実逃避して空想に浸ることでした。有限性の絶望はその逆で、周りの現実にしか目を向けないことです。この有限というのは、個人ではなく世間に対しての有限だと思ってください。つまり、平たくいうと世間一般の常識の中に組み込まれてしまうということです。社会人になると、自分がしたいこともできず、残業ばかり。なぜ残業するのかと聞くと「みんなも残業してるから」このように世間の中で悪い意味で器用に振る舞い、それが安全だと感じてしまうことを「有限性の絶望」といいます。

「周りの人がそうしているから、自分もそうする」などの、世間に組み込まれて生きることに疑問を持たなくなってしまうこと これも絶望につながるというのです


 3)可能性の絶望 可能性の絶望とは「いまある自己」を失うことです。

可能性の絶望は「現在の自己自身」を失うことを示します。「自分にはもっと能力がある、才能がある、イケメンだ」このような自信を持つことは重要ですが、それが本当であるかは不明確で可能性だけを頼りに生きているのは絶望に陥っているのと同じだというのです。理想が高すぎて自分がわかっていない人。


 4)必然性の絶望 可能性の絶望とは逆で「自分には能力もない、才能もない、ブサイクだ」このように「いまある自己」を全面的に受け入れて「あるべき自分」を失う状態です。もう、自分は何を頑張ってもどうしようもないから、このままでいいや、みたいな思考に陥りがちな人は必然性の絶望に陥っていると言えます。「自分には才能もないし能力もない」などの自分の現状のみを受け入れて、「あるべき自分」を追い求めないこと。そして絶望し落ち込んでしまう人。

私たちは自分の中にこの絶望を無限ループを超越できるものを持っていません。それを乗り越えるには信仰が必要だとキルケゴールは言うのです。

 このマタイが陥っていたのはどの絶望でしょうか。2)が一番近いようにも思います。徴税人誰もがやっているお金の徴収に嫌気がさしつつも自分がそこに組み込まれて、生きている現実。それと4)でしょうか。自分にはこれしかできないとあきらめてしまう姿がそこにあると思います。


⑨立ち上がってイエスに従う

 彼は立ち上がってイエスに従った。

さらに「立ち上がってイエスに従った」とあります。「立ち上がって」という言葉は、「座っていた」と対になっています。彼は、座っていたのを立ち上がった。罪の中に座り込んでいたところから立ち上がったのです。その原動力となったのが主イエスの憐れみでした。主イエスはすべてみていたのですから責めようと思えば責めることができたはずです。しかし、そうなさいませんでした。むしろ憐れみを示して彼を見事に罪の中から旅立たせ新しい出発を可能にしたのです。


⑩立ち上がるは復活につながる言葉

 そしてこの立ち上がるという言葉は復活につながる言葉です。

最後にホセア書を読んでメッセージを終わりたいと思います。

ホセ 6:1 さあ、我々は主のもとに帰ろう。/主は我々を引き裂いたが、癒やし/我々を打たれたが、包んでくださる。

ホセ 6:2 主は二日の後に我々を生き返らせ/三日目に起き上がらせてくださる。/我々は主の前に生きる。

ホセ 6:6 私が喜ぶのは慈しみであって/いけにえではない

この6節の言葉がマタイでも引用されているのです。

 今日も主の前に生きて歩んでいきましょう。

主イエスは、今日、私たちがやはり罪の中に座り込んでしまってなかなか立てないでいるのを見ておられるのです。私もその中のひとりなのです。主イエスはそういう私たちのありのままの姿をじっと見つめ、その私たちに、「わたしに従いなさい」と声をかけ、私たちを立ち上がらせて下さるのです。さあ、私たちも励まされてこの世に遣わされていこうではありませんか。

 
 
 

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